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こんな僕でも社長になれた - 第四章 起業前夜

父さんの事故

 二年目の受験にも失敗(大きな意味で)。
 自分でまいた種とは言え、僕は途方に暮れていた。もう一年浪人して、来年こそ合格を……いや、試験会場を目指すべきか。それとも、縁がなかったと割り切って、このまま就職するべきか。
 箱崎に戻ってからというもの、僕は悩みに悩んだ。これからどうしよう。考えても、考えても、一向に結論を見出せないまま、ただ時間ばかりが過ぎていった。誰々がどこの大学に受かったらしい、誰々は受からなかったらしい。そんな話が嫌でも耳に入るから、予備校にも行かなかった。朝と夕の配達を淡々とこなす、それ以外では滅多に外出もせず、ただ本を読んだり、昼寝をしたりして、毎日を何となくやり過ごしていた。

 そんなある日。片岡さんと、営業所の近くのとんかつ屋で夕食をとっている最中に、めずらしく僕の携帯が鳴った。画面で確認すると、発信元は父さんだった。
「おい、クソ坊主、携帯、でらんでいいとか」
「……うん。いい」
 僕は少し迷って、そう答えた。
 東京での、あの受験の日以来、父さんや母さんに対して、何となく後ろめたい思いがつきまとっていた。ましてや、これからの進路が何一つ決まっていないこんな状況で、父さんと話すのはひどく気が引けた。小言を言われることは分かり切っていたから、隣にいる片岡さんの手前もあって、僕は結局、その着信を無視したのだった。
 ところが、父さんからの電話は、一度無視しても二度、三度としつこく鳴り続く。……僕はそのうち、何だかせかされているような気がしてきて、いたたまれなくなって、ついに電源を切ってしまった。
「何か大事な用かもしれんやないか」
「……あとで掛けなおすけん」
 片岡さんにというより、自分に言い聞かせるように言って、僕は携帯をジャンパーのポケットにしまった。
「親不孝もんがぁ。あんまりお父さんを泣かすなよぉ」
 片岡さんはそう言ったけれど、僕は聞こえないふりをした。

 その日の深夜。枕元で鳴る携帯の音に、目が覚めた。
 初めのうち、僕はそれを目覚ましのアラームの音だとばかり思っていた。けれども、布団の中で少しずつ頭が働くようになるにつれて、毎朝聞いている音とは何か少し違うな、ということに気が付いた。無意識に、壁に掛けてあった時計で時間を確認すると、深夜一時を少しまわったばかり。まだ配達までには随分と早い。……着信だった。
「……あ、……はい」
 深夜に、知らない番号からの着信。不気味さを感じながら、慌てて電話に出ると、受話器の向こうから、懐かしい声が聞こえてきた。
「……一真? あんた何しよん。おばちゃん何回も電話かけたんよ。……分かる? 由美子おばちゃんよ」
 それは母さんの実姉の、由美子おばちゃんからの電話だった。瞬間的に、僕は、何となく嫌な予感がした。
「あぁ、どうしたん……こんな時間に」
「……いいね、一真。今すぐ、宗像に帰ってきなさい。タクシーでも何でも使ってよかけん、とにかく急いで、帰ってきなさい。落ち着いて聞きなさいよ、あんたのお父さんがね、ついさっき、トラックで事故起こしたんよ。……凄く大きな事故やったとよ。トラックもぺしゃんこになってしまってね……」
「え、そんな……。父さん、大丈夫なんやろ……?」
「今、やっとトラックから助け出されて、病院に運ばれたとこなんよ……。ただ、どうなるか分からんから……とにかく、一刻も早く病院に来なさい。お母さんも裕子も、もう訳分からんようになってしまっとってね……だけん、こんなときはね、あんたがしっかりせんといけんのよ。分かったね、一真……」
 由美子おばちゃんからの電話は、そう言ってぷつっと切れた。
(……父さんが、事故に)
 薄暗い部屋の中で、時計の秒針の、規則的な音だけが響いていた。電話を切った後も、布団の上に座り込んだまま、少しの間、動けなかった。
 父さん、大丈夫やろうか。漠然と考えた。

 部屋着の上からジャンパーを羽織ると、ポケットに財布と携帯だけつっこんで、家を出た。タクシーに乗り込み、行き先を告げる。……動いている間、僕は自分でも驚くほど冷静だった。それはたぶん、あまりにも突然の出来事に、どこかまだ現実味が欠けていて、万が一にもついさっきまで生きていた父さんが死んでしまうかもしれないなんて、考えもしなかったからだった。
 いつもなら新聞を積んで、バイクで走っているはずの通い慣れた道を、今、タクシーに乗って通りすぎている、そのことが、何となく不思議に思えた。
 途中、時間を確認しようと何気なく携帯を取り出すと、画面に、未読メール二通、と表示されているのに気付いた。どちらも、父さんからのものだった。
(父さん……)
 一通は昨夜、とんかつ屋での着信のすぐ後に送られたものだった。あのとき、つまらない理由で父さんの電話に出ようとしなかった僕。そんな僕の思いを全て見透かした父さんの、短い、一言だけのメールだった。

〈一真、逃げないで〉

 そして、それから約三十分後に送られていた、二通目のメール。

〈一真。
 これからも、母さんや裕子、真啓を大切に。
 頑張って、後悔しない人生を送ってください〉

(父さん、どういうこと……?)
 僕は、すぐには、その二通のメールの意味を理解できなかった。逃げないで、そう言った父さんが、どうしても僕に聞いてほしかったこと。繋がらない電話を何度も何度もかけ続けながら、どうしても、あのとき、僕に伝えたかったこと……あのときでなければ、ならなかったこと。
 それが、この二通目のメールである理由が、僕には全然分からなかった。……なんで?……ひたすら、心の中でそう繰り返していた。無意識に身体ががくがく震えて、僕はそのとき初めて、父さんが本当に死んでしまうかもしれないと、恐くなった。

「この親不孝もんがぁ」
 つい数時間前、とんかつ屋で片岡さんが口にしたこの言葉が、改めて僕の胸に突き刺さった。あのとき、僕はどうして電話に出なかったんだろう。少しくらい後ろめたいことがあっても、ちゃんと電話に出ていればよかった。ちゃんと父さんと話をしていればよかった。
 ……このまま、もう二度と父さんと話すことができなくなるかもしれないのに……。
 僕は知らないうちに泣いていて、しばらく、涙を止めることができなかった。

 病院に着くと、玄関で由美子おばちゃんが僕を待っていてくれた。
「遅かったやないの……お母さんたちは奥やけん、ほら、早く行きなさい」
「……うん」
 青白い蛍光灯がわずかに灯った、薄暗い待合室の長いすに、母さんと妹が力なく座り込んでいた。
「……母さん、裕子」
「一真……いつ来たん」
「……今。遅くなってごめん。父さん、今、どんな風なん?」
「……ずっと待っとるんやけどね、全然出てこんのよ」
 母さんも妹も、僕が病院に到着したときには、もう少しは落ち着いていたものの、見るからに疲れ切っていた。そんな二人の代わりに、由美子おばちゃんが状況を説明してくれた。
「……お父さん、もう二時間くらい前から手術室に入ったままなんよ。体中、何ヶ所も骨折しとるらしくてね……」
 由美子おばちゃんの話によると、父さんは昨日の夜、トラックの運転中に、見通しのいい一車線道路で、真正面から壁に衝突したらしかった。警察から連絡が入り、母さんたちが現場に駆けつけたときには、そのあまりの衝撃で、トラックがたった四、五十センチ程度の長さに、縮んでしまっていたのだという。そのため、運転席から父さんを救出するのに随分時間がかかり、ようやく救い出されたときには、すでに父さんの意識はない状態だった。
 救出作業中、警察は周囲にロープを張って、親族でも一定の場所より先に入れないようにしていたらしい。けれども、現場に到着するなり母さんは、そんな警官の制止を振り切って、血相(けっ そう)を変えてトラックに駆け寄って行ったのだという。
 ふと、弟の姿が見えないのが気になった。
「……真啓は?」
「まーくんはここに来るの、えらい怖がってねえ……。家におるって言って、泣いて、結局こんやったんよ。……でもそれがよかったかもしれんね。あんなとこ、見せんほうが良かったかもしれん。今頃心細かろうけん、あんた、電話してやりなさいよ」
 弟は当時まだ中学生で、こんな状況に怖がるのも無理はなかった。
「……母さん、僕、真啓に電話してくるけん。ついでに何か飲み物買ってこようか?」
「うん、じゃあ……お願い」
「お兄ちゃん、私も行く」
 妹が言った。

 長い病院の廊下。妹と並んで歩くと、スリッパの音がぺたん、ぺたんと響いた。
「……お兄ちゃん、箱崎からタクシーで来たと?」
「うん」
「高かったやろ」
「うん……由美子おばちゃんが払ってくれたけど、二万くらいした」
「そっか。……でも、しょうがないよね。こんなときやもん」
「こんなとき」、妹はそう言うとき、一瞬、力なく笑った。妹も僕も、こんなときが本当に自分の前にやってくるなんて、想像もしていなかった。
 箱崎から二万円ぶんもタクシーに乗って駆けつけた宗像の病院。人気のない待合室の重々しい空気と、憔悴(しょう すい)し切った母さん。手術室の中の、父さん。
 何から何までドラマみたいに、日常とはかけ離れた光景だった。だから余計に、嫌が応にも否定できない、生々しい現実を思い知らされた。僕はただ、その重圧だけで、窒息してしまいそうだった。
 ……だけど妹は、この病院へたどり着くまでに、僕より遥かにたくさんの、過酷な現実と直面してきたのだ。母さんや由美子おばちゃんと事故の現場に駆けつけ、無残に潰れたトラックを目の当たりにした。母さんが我を忘れて飛び出して行くのだって、側で泣きながら見ていた。そんな妹が今、何を思って、どんな気持ちでいるのか。そのことを考えたとき、僕はとても、やりきれない気持ちになった。
「……お父さん、大丈夫やか」
 妹が、呟(つぶや)くように言った。

 突き当たりのドアの向こうで、大怪我を負った父さんが生死の境をさまよっている。そのことに対して、ただ待つことしかできない僕たちは、悲しいくらい無力だった。
 ふと気がつくと、窓の外が、うっすらと明るくなり始めていた。青白い空に、点々と浮かぶ雲のかたまり。あまりにも穏やかな、一日の始まり。
 結局、父さんの手術は十時間あまり続いた。車体に挟まれた両足を始め、全身に十ヶ所以上もの骨折と、両足の靭帯(じん たい)損傷。そんな大怪我を負いながらも、父さんは奇跡的に、一命を取り留めた。
 僕たちは心から安堵して、これで、もう大丈夫だと思った。僕たち家族を突如として襲った真夜中の悪夢は、もうこれで、遠くに過ぎ去ってしまったと思った。
 でも、そうじゃなかったのだ。……父さんの事故は始まりに過ぎなかった。そのことに気付いたのは、それから、間もなくのことだった。

家族が壊れてゆく……

 手術が終わってもしばらくは面会謝絶の状態が続いて、結局、僕たちが父さんの病室に入れるようになったのは、事故から、約二週間ほどが経ってからのことだった。
 その日、僕は箱崎で朝の配達を済ませた後、電車に乗って宗像へ向かった。病院の最寄駅で降りると、そこからは迎えに来てくれていた母さんと合流。車で、病院へと移動する。
「父さん、どんな具合なん?」
 車の中で僕が切り出すと、母さんはゆっくりと、言葉を選ぶようにして答えた。
「……うん。だいぶ、弱っとるみたい」
「そんなに身体、悪いん?」
「身体もやけど、心もね……」
「そうなん」
「大きな事故やったけん、ショックも大きかったんやろうねえ……」
 僕はふと、事故の前の夜、父さんからきたメールのことを、母さんに話すべきかどうかと考えた。……でも事故以来、二週間ぶりに顔を合わせた母さんは、連日の看病のせいか随分疲れた顔をしていて、そんな中でメールのことを切り出せば、余計に負担をかけてしまうかもしれない。そう思うと、どうしても言えなかった。
「母さん、ちゃんと休めよるん?」
「……顔の皺(しわ)が増えたやろ」
「……うん。増えた」
「え。そげんはっきり言ってから……。大体、半分はあんたが増やしたんよ。家族みんなお母さんに心配ばっかりかけるっちゃけん……」
「……すいません」
 僕がそう言うと、母さんは少し笑った。
 昼間の病院は、この間とはまるで別の場所のように、多くの人で溢れていた。日の差した院内は明るく、清潔で、ところどころに花も生けてあった。あの夜の、重々しい空気なんて、もうまるで感じさせなかった。

「……父さん」
 ドアの外から声を掛けて、そっと引き戸を引いて中に入った。ベッドに横たわっている父さんの姿に、ぎょっとした。ミイラみたいに全身、いたるところを包帯でぐるぐる巻きにされていて、そんな中でもかろうじて地肌の見えている顔や首は、事故前と比べ物にならないほど青白く、血の気を失っていた。もともと細身だった父さんが、二週間という短時間で、さらにげっそりと痩せてしまっていた。
「おう、一真……」
 僕を見て、父さんは手のひらを小さく上げた。
「わざわざ来てくれたんか……悪いなあ」
 ゆっくりと、弱々しく言葉を発する父さん。
「いいよ。それより大丈夫なん? ……大変やったね」
「あぁ。お前にも、心配かけたなぁ」
「……足、まだ痛むん?」
「痛み止めもらっとるから、じっとしとけば、そんなには痛まん」
 常に視線を落としたまま、ぼそぼそと一言、一言、吐き捨てるように喋る、こんな父さんを見るのは初めてだった。
「父さんの足、今ボルトが入っとんよ」
「へえ……」
 事故前と、がらっと様子の変わってしまった父さんを前に、僕は正直、激しく動揺していた。何て言葉をかければいいのか分からなかった。
「寝巻きの着替え、ここに入れとくから」
 そんな僕と父さんの側で、必要最低限のことを話す以外は終始無言のまま、せわしなく動き続ける母さん。父さんの着替えを戸棚にしまい、花の水を換え、コップを洗う。
 ……ふと、そんな母さんと父さんが、ほとんど目を合わせていないのが気になった。
「……母さん、一真に何か飲み物、出してやってくれ」
「はい」
 短い言葉のやり取りの中にも、何となくお互いの間を探り合っているような、ぎこちなさを感じた。これまでにだって、父さんと母さんの喧嘩は日常茶飯事だったけど、こんなときだけに、僕は何となく少し、不安になった。
 父さんの体調のことを考えて、母さんと僕はその日、一時間ほどで病院を後にした。
「……じゃあ、また来るけん」
 僕がそう言うと父さんは、ああ、と言って、また右手を小さく上げた。

 帰りの車の中で、母さんがおもむろに切り出した。
「……入院の準備があったからね、お父さんの持ち物を、色々、整理しよったんよ。そしたらね……一真にこういうこと言うのも何だけど……、お母さんも知らない借金が、色々あったんよ」
「借金……」
「お母さんもね、少しくらいあるのは知っとったんよ。一真だって知っとったやろ? それを返すために、お母さんだってずっと、頑張って働きよったんやけん。でもお父さん、お母さんにも内緒で、色んなとこから、結構お金借りとったみたいなんよ」
(なんで…)
 僕は少し考えてから、恐る恐る口にした。
「……浮気?」
「まさか。お父さんはね、そんなことする人じゃないんよ。それはお母さんがよく知っとるんやけん。……そうじゃないんよ」
 母さんの話によれば、父さんは母さんさえ知らないところで、今回に限らず、以前にも何度か交通事故を起こしていたらしかった。考えてみればそれも当然で、毎日二、三時間程度の睡眠しか取らないでいて、とてもじゃないけど、ちゃんと運転なんてできるはずがない。一人も負傷者を出さなかったのは不幸中の幸いだったものの、トラックが動かなければ仕事にならないから、父さんは僕らには内緒で車を修理に出したり、買い替えたりしていた。それに何十万、何百万と費用がかさみ、結局、気付いたときには途方もない額にまで、借金が膨れ上がっていたのだった。
「……お父さんも水臭いよねえ。隠さんで言ってくれとったら、お母さん、何だってできたのに」
 ふと、母さんの言葉に違和感を覚えた。
「何だってできたのに」。
 けれどもそのときの僕には、違和感の正体が何なのか、はっきりとは分からなかったのだった。

初めての就職

 三ヶ月に及ぶ入院を経て、父さんは無事退院。
 もともと、どちらかと言えば体力のあるほうだった父さんは、入院中、過酷なリハビリにも懸命に励み、家に戻ってきたときには、事故前とほとんど変わりなく歩くことができた。重い荷物を運ぶ、以前の運送の仕事はさすがに無理でも、早朝の、工場でのアルバイトには、退院後間もなくして、再び通い始めた。

 父さんの、止まっていた時間が動き出したのと同時期に、僕自身にも、大きな変化が起きた。就職したのだ。新しい職場は、福岡市天神の小さなデザイン会社。二年間、僕が毎日、新聞の間に挟み続けてきた広告、今度はそのデザインをすることになった。就職難と呼ばれるこの時代。僕のように怠(なま)けた浪人生に、まさか就職が決まるとは思いもよらず、自分のことながら採用通知には奇跡を見たと思った。ましてや僕が強く興味を持っていたデザインの仕事。デザインの本なら人一倍読んだし、パソコンを使った作業も独学で随分勉強していた。何となく、やれる、という自信もあった。
 それに伴って、僕は予備校を辞め、新聞奨学生も卒業。必然的に箱崎を離れ、宗像に戻ることになった。宗像から天神までは電車で四十分程度とやや距離はあるものの、父さんの一件もあって、しばらくは僕が家にいたほうがいいと思ったのだ。
 慣れ親しんだ配達所を離れるのは寂しかったけど、所長さんや奥さんは、頑張れよ、と背中を押して、僕を送り出してくれた。

 そんなわけで、突如戻ってきた、家族五人、一つ屋根の下での暮らし。
 二年という月日のうちに、僕の部屋は当然のように妹の部屋になっていて、僕の家具は、妹のものになっていたので、やむを得ず僕は居間のソファで寝ることに。足ははみ出るし、頭には妙な角度が付くしで、慣れないうちは朝、身体の節々がひどく痛んだ。だけど、僕にはそんなこと、大して気にならなかった。ちょっとくらい不便でも、家族が誰一人欠けることなく家の中にいる。ましてや、あんな事故を経験した父さんだって、欠けることなく家の中にいる。それだけで十分だと思ったのだ。

 だけど物事は、僕が思っているほど、簡単には運ばなかったのだった。
 あるとき、僕が仕事を終えて家に戻ると、母さんの姿がなかった。
「母さん、まだ帰ってないん?」
 妹に尋ねると、うん、と頷く。時計を見ると、間もなく深夜零時を回ろうとしているところだった。リビングのソファでテレビを見ている父さんのほうに、さりげなく目をやる。
「……父さん、大丈夫なん?」
 父さん本人には聞こえないように、小声で妹に尋ねると、
「やばい」
 と、妹。……やばい。

 父さんの入院を期に、我が家には多額の借金があることが明らかになった。それからというもの、母さんは日中の化粧品販売の仕事に加えて、新たに夜、近くのスナックで、手伝いを始めたのだった。……手伝い、と言っても母さんの仕事は、お客と一緒にお酒を飲んで、店の売り上げを上げるという、体を張ったもの。もともとアルコールにはそこそこ強いほうだった母さんだけど、四十も半ばの身体で、仕事としてそれをやるのには、それなりに負担も大きく、仕事を始めてからというもの、母さんの顔つきは徐々に険(けわ)しくなっていった。毎晩泣きながら帰ってきたかと思えば、いきなり大声を上げて笑い出す。そんな母さんの仕事について、当然父さんは快く思っていなかった。それで二人は、このところ、何度となく喧嘩になっていた。
 この日も、そうだった。
「だだいまあ」
 一時半を過ぎた頃、母さんがベロベロに酔っ払って、帰ってきた。それを見て、案の定、父さん大爆発。
「お前、今、何時と思っとるんかぁ! 毎晩毎晩、飲んだくれて帰ってきて!」
「……お父さん、なんでそんな言い方するん! 私……今、一生懸命働いてきたんよ! 好きで飲みよるんやないんよ! しょうがなく飲みよるのに……!」
 父さんの雷に、酔った母さんが真っ向から反論して、ますます火に油を注いでしまった。
「一生懸命って……なにもこんな仕事までせんでいいやないか!」
「じゃあ他にどうやって生活していくん! 他の仕事やって、どうやって子供たち育てて、借金返していくん……!」
 母さんのことを想うばかりに、一日も早く水商売をやめてほしい父さん。家族のことを想うばかりに、辞めたくても、辞められない母さん。そんな二人の激しい口論は延々と平行線を辿った。感情のままに大声で恫喝(どう かつ)する父さんと、そんな父さんに負けじと、悲鳴のような叫び声を上げる母さん。
 そのとき、母さんがふと椅子から立ち上がると、リビングに置かれた食器棚の前に立った。乱暴に戸を開け、中に並べられた食器を次々と手に取っては激しく床に投げつけ、手当たり次第、叩き割り始めたのだ。
「……おまえ、なんしよるんか!」
 身体を震わせながら父さんが叫び、母さんは、わあああっと大声を上げて、泣き叫ぶ。とっさに僕は、どちらかが包丁を持ち出したりしないように、台所の入り口に立ちふさがった。そんな修羅場だった。妹はただ、わけもわからず泣きじゃくり、弟は黙ってうつむいていた。

「……うう、うっ……うっ……」
 ふと、泣いているとばかり思っていた母さんの声が急におかしくなって、僕はぎょっとした。
「母さん?」
 慌てて母さんのもとに駆け寄ると、母さんが手で喉元(のど もと)を押さえながら、ひっ、ひっ、と苦しそうにもがき出したのだ。
「……どうしたん、母さん、どうしたん!」
 僕がどんなに呼びかけても、母さんは苦しそうにうめくばかりで、僕に返事を返すことができない。
「……母さん、母さん!」
「……一真、何でもいいけん、袋持ってこい! ……早く!」
 父さんの大声に、僕は慌てて台所へ駆け込み、置いてあったビニール袋を手に取って母さんに渡した。母さんはその袋で口元を覆い、すう、はあ、と何度か深い呼吸を繰り返し、間もなくして、何とか落ち着いたようだった。過呼吸だったのだ。

 目に見えて弱り果てていた母さんに、父さんもそれ以上、何を言うこともできず、結局その夜のとんでもない騒動は、何とか終焉(しゅう えん)を迎えたのだった。
 そのときの僕はさすがに、もう、だめかもしれないなあと、漠然と思っていた。悲しかった。

両親の離婚

 家族という絆は、そのままでは細くて弱いたくさんの糸が、何本も束になって強くなったもの。先っぽには、大きなカゴがぶら下げられていて、その中には、家族が向き合わなくちゃいけない様々な困難が、無数に積み上げられている。
 当然のことながら僕たちは、その重さに負けないように必死で頑張っていた。重さに負けてしまわないように、糸の束を必死に引っ張っていた。だけど、懸命になりすぎるあまり、僕たちは気付くことができなかったのだ。カゴの重さに耐えかねた絆という糸が、一本、また一本と、音も立てずに千切れていくのに。もう、どうにも取り返しが付かないというときまで、気付くことができなかったのだ。

 たび重なる話し合いの末、父さんと母さんは離婚することになった。最初に切り出したのは母さんで、父さんはすぐには納得しなかったけれど、母さんの決意は驚くほど固く、最終的には父さんも呑まざるを得なかった。
 それに伴って父さんは、それまで僕たち家族が倉庫として借りていた、月の家賃一万五千円のアパートに引っ越しをすることになった。四畳半の一間と、半畳もない小さな台所、それでいて風呂とトイレは共同という、恐ろしく簡素なアパート。今の時代、せいぜい売れないお笑い芸人か、もしくは住み込みの新聞奨学生くらいしか寄り付かないだろうそんな場所で、五十を目前にした父さんが、これからは一人で、暮らしていく。
「父さん、寂しくないやか」
 引越しの日、誰に言うでもなく弟がぽつりと言って、それを聞いた僕は、後で少し泣いた。
 でも、だからって、誰が悪いわけじゃないってことは、みんな良く分かっていた。僕だけじゃない、妹も弟も、母さんも、そして父さん自身も、きっと良く分かっていた。

「母さん、電話、でらんの?」
 ある日曜のことだった。仕事が休みだった僕は朝から家にいて、少し前からひっきりなしに電話が鳴っているのに、母さんがまるで聞こえていないようにスルーするのを、不思議に思って尋ねた。すると母さんが言った。
「出らんでいいと。あんたも出たらいかんよ」
「……なんで」
「……誰からか分かっとるけん。後で母さんからかけるけんいいと」
「……誰からなん?」
「……お金借りてるとこ」
 事故後の父さんは、やむを得ず一日の仕事の量を大幅に減らしていた。……と言っても、事故前の仕事量が超人的だったので、人並み程度になったというだけなんだけど、そのせいで必然的に収入も減り、借金の返済はますます滞るようになった。そのため、いつからか家には、朝から晩まで、やくざまがいの取立ての電話が絶え間なく鳴り続けるようになった。
 そんな状況で、母さんはたった一人で重荷を背負い続けていた。仕事を二つ掛け持ちし、昼も夜も働きながら、同時にあちこちに頭を下げて回っては資金繰りに奔走(ほん そう)、その合間を縫って、週に何度も、天神にある弁護士さんの事務所へ赴く。必死だった。
 結局、母さんが全て段取りをして、父さんは自己破産した。一方で、母さん名義の借金も少なからずあったものの、母さんはそれを自分で返すことにしたのだった。女手一つで返済していくには途方もない額だったけど、今後、子供に何かしらの影響が出てはいけないと、自分だけは自己破産しないことを選択したのだ。
「隠さんで言ってくれとったら、お母さん、何だってできたのに」
 父さんを見舞った日、母さんが車の中で言ったこの言葉が、後になって何度も思い出された。

ホームページって、凄い

 母さんも父さんも必死になって働いたけれど、結局、まとまったお金を作るために、僕たちの住んでいたマンションは売りに出されることになった。
「もともと、分不相応なとこやったんよ」
 そんな風に言う母さんを見て、こんな僕でもようやく、ちゃんと働いてお金を稼がなくちゃいけないな、と思うようになったのだった。

 その当時、僕の勤めていたデザイン会社は、主に地元企業の広告を請け負う、社長も含めて総勢五名程度の小さな有限会社だった。
「じゃ、家入君。こればやってみて」
 入社して一ヶ月が経った頃、直属の上司であるT部長から、初めて一人で、スーパーのチラシの製作を任されることになり、僕は密かに奮い立っていた。
(ありがちなダサいチラシじゃない、もっとカッコイイのを作ってみせる!)

 当時から僕は、スーパーのチラシがいかにもスーパーのチラシなこと、車屋のチラシがいかにも車屋のチラシなこと、この「いかにも」に大きな疑問を持っていた。スーパーのチラシがモダンだっていいじゃないか! 車屋のチラシがサイケだっていいじゃないか! そう、思っていたのだ。
 ところが、魚がいくらとか肉がいくらとか、絶対に盛り込まなきゃいけない最低限の情報を並べたら紙面はほぼいっぱいになってしまうし、後は小奇麗に見えるように枠をつけてみたり、文字に影を落としてみたり、レイアウトの微調整をするだけで、奇抜なことをする余地なんてほとんどなかった。せめてもと、外枠に微妙な色味の赤を使ってみたものの、
「……家入君、ここの枠の色なんだけどね、同じ赤なら、もっとぱーっとした赤に変えてくれんね? こんな中間色は普通、この業界じゃ使わんけん。覚えとってね」
「あ……はい」
 あえなく修正。
 デザイン会社勤務、と言うと何となくクリエイティブなイメージがあるけど、その実、会社が請け負う仕事の内容は様々だ。特に、ことチラシ製作なんかの場合には、決められた色と、決められた画像をレイアウトすることがほとんどの、クリエイティブとはかなりかけ離れたお仕事。そんなわけだから、デザイン会社に就職したと言っても、現実の仕事内容と、予備校時代にあこがれたもの、夢見たものとはかなりの開きがあったのだった。僕が自信を持って、これはイイと思って上げたものほど、
「家入君、これ使えんばい」
 とクライアントに渡る前に、上司からトンボ返りで戻ってくる。チラシというからには人に見てもらわなくちゃいけないし、見せてアピールするからには個性的なものがいいんじゃないかと、僕は思ってしまう。でも、どうやらそうじゃないらしいのだ。矛盾しているようだけど、いかに普通に作るか、ということがこの仕事の鍵だった。製作する側の価値観を押し付けるのではなく、より幅広く、受け入れてもらいやすいものを作ること。最初のうちはそんな考え方に反発もあったものの、時間が経つにつれて、これはこれでありなんだと、ちょっとずつ受け入れられるようになっていった。

 そんなある日。僕の携帯に珍しい人から連絡が入った。
「おっ、クソ坊主。オレオレ。元気しとるかぁ? 脳みそ腐っとらんかあ?」
「……あぁ、片岡さん。久しぶり。どうしたん?」
「あのなあ、お前に頼みたいことがあってなあ。お前って、確かパソコン詳しかったよな? そこで頼みだ。俺様のホームページを作ってくれ」
「片岡さんのホームページ? ……誰が見るん」
「俺様の作品を見てくださる、お客様に決まっとるやないか。やっぱこれからはインターネットの時代やろ、作品もインターネットで展示せんといかんとばい」
「へぇ。そうなん」
「じゃ、よろしくな!」
「え……」
 片岡さんはそこまで喋るだけ喋ると、一方的に電話を切ってしまった。
 
 そんなわけで、半ば強引に、僕は片岡さんのホームページの作成を請け負うことになったのだ。面倒なこと引き受けたなぁと最初は思った。そもそも、ホームページなんて一度も作ったことがなかったのだ。……ところが、とりあえず物は試しと本屋で技術書を買ってきて、HTMLをほんの少しかじってみると、パソコン通信時代に覚えたプログラムの知識も案外役に立って、そんなに難しいものじゃなさそうに思えた。
(……やってみよう)
 そこで、僕はさっそく、作業に取り掛かったのだった。
 手始めに、サイトのデザインを考えた。せっかく作るんだったら、片岡さんらしさが出るものがいい。面白いものがいい。背景は思い切って黒にしてみてもいいかもしれない。片岡さんの代表作、にゃんこの画像をトップページに持ってきて……。
 会社でやるデザインと違って、何でも好きなことが好きなようにできる。僕がいいと思ったもの、全て形にできるのだ。それならつまらないものを作ったって面白くない。小奇麗にまとめたって片岡さんらしくない。デザインのアイデアは次々に浮かんで、それを覚えたてのHTMLで手当たり次第、形にしていく。そのうち妙なこだわりも出てきて、少しくらい動きがあったほうが面白いと、並行してフラッシュも作った。マウスのポイントを動かすと、動きが生じるプログラム。クリックすると効果音が流れるプログラム。ああしよう、こうしよう、考えて、作る。
 僕は無性にワクワクした。毎晩、寝る間も惜しんで作業に没頭した。プログラムと、デザイン。僕がこれまで培(つちか)ってきた技術を、そこではどちらも同時に発揮できるのだ。

 ……ホームページって、凄い。

 今となって思えば、このときをきっかけに、僕はウェブの面白さに強く惹かれるようになっていったのだった。
 片岡さんのホームページ作成に着手して以来、僕のプライベートはより一層インドアに、孤独に充実するようになった。残業して当たり前(なのに安月給)で知られるデザイン業界。一分一秒でも早く家に帰りたかったけれど、当時僕はピカピカの新人サラリーマン。仕事を早く終わらせても、上司より先にオフィスを出るのは何となく気まずいムードがひしひしと漂っていて帰るに帰れない。そうかと言って、上司の仕事が早く終わったとしても、今度はそこに、飲み会という社交の場が用意されるのでやっぱり帰れない。
 特にこのアフターファイブのお付き合いに関して、僕の前にはものすごく高いハードルが立ち塞がっていた。というのも、両親共にかなりの酒豪ながら、なぜか僕は根っからの下戸なのだ。それでも最初のうちは慣れれば何とかなるものだと思い込んでいたし、「サラリーマンは飲んでナンボばい、家入君」なんて上司も言うもんだから、少しでも飲めるようにならなくちゃと、五百ミリリットル入りの缶ビール、一日一本というノルマをストイックに自分に課したりなんかして、健気にもお酒のトレーニングに励んでいた。とはいえ、酒好きな人ならたまらない仕事帰りのプハーッ! も、飲めない僕にとっては苦痛そのもの。たちまち顔が真っ赤になって、頭の中がぐるんぐるん回転する。で、最終的にオエーッ。そんな少量のアルコールでさえ、僕の身体は全力で拒否するのだ。そんなわけだから、嫌が応にも飲まされる飲み会の席は、僕にとって最大のストレスで、こんなに苦くて、後々面倒なものを飲むくらいなら、コーラのほうがよっぽどおいしいばい、と口に出さずとも、何度となく思ったのだった。

〈彷徨(さまよ)う夢の天神に生温さを望み……〉
 ちょうどその頃、こんな歌を福岡出身の歌手、椎名林檎が歌っていた。
 夜十一時頃、仕事を終えて、会社から地下鉄の駅へ向かう。大きなデパートのイルミネーションは何を照らすでもなくいつも灯っていて、その灯りからあえて逃れるようにして、地下鉄の入り口、ビルの影、狭い路地で、僕と歳の変わらない人たちがギターを抱え、声を張り上げて歌っていた。遠巻きに酔っ払いが、調子よく手を叩いては、体を左右に揺らして踊る。
 空き缶の袋を山のように積んだリヤカーを、重い足取りで引いて歩くホームレス。身体を密着させて歩く、意味深な男女。椎名林檎が歌うように、夜の天神の街はいつも、気温とは別のところで、妙な生ぬるさを感じさせていた。誰と話すでもなく、ズボンのポケットに手をつっこんで、背中を丸めて歩きながら、その日一日のことや、明日のこと、家族のこと、自分のことなんかを、色々と考えていた。

 そんな毎日が、十ヶ月ほど続いた、ある日のことだった。
 ささいなことがきっかけで、僕は上司と激しく衝突。入社して初めて、威勢よく反発してみたのだった。……が、小心者の僕はその後すぐにいたたまれなくなってしまい、自分のデスクに「やめます」と置手紙を残し、会社から逃亡。以来、二度と出社しなかったのだった。

女子高生とメル友に

(これからは父さんの代わりに、僕が家族を支えなくちゃ……)
 確かにそう思っていたのに、結局、月十二万の給料が一度も上がることなく退社、という名の逃亡。
 そんな僕の手元には当然のように何の蓄えも残らず、一方で就職に際して購入したスーツと、ノートパソコンのローンという負の遺産だけは確実に残っていた。できることなら母さんを楽にしてあげたい、家族を養っていきたいと思っていたはずなのに、現状はというと、自分一人まともに食べていけない、無職。
 ……これじゃあまずいと、僕は再び就職活動に乗り出した。求人情報誌や、インターネットで仕事探し。この期に及んで選んでる暇はないと、よさそうなデザイン会社には積極的に履歴書を持って面接に行った。けれども、高校中退で資格など一切なしの僕は面白いくらい連続で不採用、不採用に次ぐ不採用。前の仕事が思ったより簡単に決まったことで、僕はすっかり世の中を甘く見ていたのだ。
 悲しいことに、たかだか二つ三つ……四つ五つ、その程度の会社が僕を必要としないという、それだけのことなのに、あなたは不採用です、あなたはうちの会社にはいりません、なんて立て続けに言われると、だんだんと精神がやさぐれてくる。ともすれば、社会全体が組織ぐるみで僕を拒否しているんじゃ、なんていうものすごい妄想に取り付かれてしまう。

 実は当時、そんな僕の唯一の支えとなっていた一人の女性の存在があった。名を、アキコという彼女。当時十七歳の、高校二年生だった。
 僕と彼女が知り合ったきっかけは、インターネットの「ご近所さんを探せ!」というメール友達募集サイトで、好きなミュージシャン、「椎名林檎」繋がりで知り合った。

〈芸術の話をしましょう。坊主〉

 僕が最初に彼女に送ったメールはこんな風だった。しょせん女子高生が僕なんか相手にしてくれるはずがないというダメもと感から、本文は限りなく簡素に、でも芸術をちらつかせるあたりどうしても本気度が隠せない、相当にいやらしい切り口だった。(ちなみに「坊主」というのは当時の僕のハンドルネームだった)。
 自分で書いておきながら、まさかこんなメールに返事がくるわけない……と諦めかけていた数日後、思いがけず彼女から返事が届いたのだ。

〈お名前から察するに坊主頭でいらっしゃるのですか。アキコ〉

 僕が送ったのに負けず劣らずの短い文面、しかもかなり堅い言い回し。普通、今どきの女子高生はもっとくだけた口調で話すものじゃないのか?「超○○~」とか「マジ○○~」は死語なのか? ……何となく興味をそそられて、僕はすぐさま返事を送った。

〈坊主頭です。自分でバリカンを使って定期的に剃ります。坊主〉

 すると、彼女からの返事はこうだった。

〈自分で剃られるのですか!
 バリカンの材質や角度など、こだわりをお持ちなのでしょうか。アキコ〉

 彼女がどうしてそんなとこに興味を示すのか全く分からなかった。ましてや当時の僕は、同世代の男子に比べても、圧倒的に女子との交流の経験が少なく、普通、女子がこういうことに興味を持つのか、それとも彼女が特殊なのか、それさえ判断できなかった。
 そんなわけで僕は最初のうち、何とか話題をもたせなくちゃ、とか、いいとこを見せなくちゃ、とか、女子とのメール交換という未知の行為に、ものすごく気負っていた。ところが毎回毎回、僕の送ったメールに対して、予想もつかない返事を返してくる彼女。そんな彼女とのやり取りを通して次第に僕も、純粋に楽しいと感じるようになっていったのだった。
 こんなこともあった。

〈リタ・アッカーマンというイラストレーターが好きです。坊主〉

 そんなメールを送った僕に、彼女から返ってきたメール。

〈知りませんでしたので早速、検索してみました。
 坊主さんの仰るアッカーマンとは、数学的な意味として原始帰納的関数でない
 帰納的関数の実例として有名なアッカーマン関数……のアッカーマン、
 ということで、よろしいでしょうか。アキコ〉

〈違います。坊主〉

 いかにボケるか、いかに突っ込むか。そんなやり取りが、とにかく面白かった。
 いつの頃からか、気がつくと僕は一日中、彼女からのメールを心待ちにするようになっていた。彼女からメールが届くとすぐに返事を書きたくなる。でも、受信してすぐに返事を送れば、いかにも、待ってました! みたいな印象を与えてしまうのではと、あえて、翌日まで待って返事を送ったり、忙しい中で何とか時間が取れたような演出を加えてみたりもした(無職なのに)。
 彼女とのやり取りの中で僕は、それまで一度も感じたことのなかった、気持ちの高まりを感じずにはいられないのだった。

再就職

 デザイン会社を辞めて、数ヶ月が経った頃のことだった。
「一真、あんた働けるよ!」
 母さんが突如、僕にそんなことを言い出した。
「……え? どういうこと?」
「お母さんの知り合いの人の会社で、一真のこと雇ってくれるって!」
「ええっ!」

 そんなわけで、結局は母さんのつてで再就職が決まったのだった。
 幸運なことにその会社は、企業のホームページ製作やシステム開発を請け負う、いわゆるインターネット関連企業。片岡さんのホームページを作って以来、ウェブ製作、特にウェブデザインの魅力に取り付かれていた僕は、今度こそ、僕が本当にやりたかった仕事ができると、期待に胸を膨らませた。
 そんな、記念すべき初出社の日。緊張しながらオフィスへ足を踏み入れ、恐る恐る近くにいた人に声を掛けた。
「お、おはようございます、家入です」
「ああ、おはようござ……」
 言い終える前に、その人は僕を見てあからさまにぎょっとした表情を浮かべた。
「あ……じゃあ、えっと、とりあえず社長に……」
「……はい」
(なんなんだ……?)
 デスクとデスクの間を縫うようにして、言われるままに一番奥の社長のデスクへ向かった。……二、三十人はいるだろうか。スタッフの数だけを比べても、以前のデザイン会社より格段に規模が大きい。それぞれが、デスクに置かれたパソコンと向き合って、黙々とキーを打っていた。側を通ると、みんなちらっと僕のほうを見て、再びモニターに視線を戻す……かと思いきや、その後もう一度、ぎょっとした目で僕を見て、あからさまに怪訝な顔をする。
(何かしたっけ……)
 僕は激しく動揺していた。

「……おはようございます」
 そんな、刺すような視線を浴びせられながら、ようやく社長のデスクにたどり着いた。社長は、母さんを介して僕自身も面識のある人だったので、知っている顔を見て、僕は少しほっとした。
「今日から、よろしくお願いします」
 深々と頭を下げると、社長が口を開いた。
「……おぉ、頑張ってな」
「はい、ありがとうございます」
「うん。……ところで、一真君」
「はい?」
「……もう、大人なんやけんな」
「……?」
「髪の毛、明日はどうにかしてこいよ」
「あっ……」
 そのときになってようやく、オフィスで浴びせられた、刺すような視線の謎が解けたのだった。みんな、僕の髪の毛を見ていたのだ。……というのも、デザイン会社を辞めてすぐ、僕は何となく思い立って、短い坊主頭をまっキンキンに染めていたのだ。しかも身なりに無頓着だった僕は、それを随分長い間放置していて、気が付けば根元の方は地毛が伸びて黒、毛先だけ金髪の、ツートーン坊主になっていたのだった。
(まずったなあ)
 しょっぱなから、ばつの悪い思いをしつつ、僕は指示された自分のデスクへ向かった。

「……じゃ、ここが家入の席な。おい、持永、こっちは家入。今日からやけん、色々よろしくな」
「はーい」
 持永と呼ばれたその社員は、見たところ僕と同世代。しかも社内でも数少ない茶髪で、ツートーンの僕としては、何だか無性に親近感を覚えた。
「家入君、いくつなん?」
 席に着くと、さっそく、持永君が話しかけてきた。
「僕、二十一。持永君は?」
「おー、タメやん。俺も二十一。よろしくー」
「あ、うん。よろしく」
(悪い人じゃなさそうだ)
 僕は少しほっとした。間もなくして上司がやってくると、一通り職場の説明をしてくれた後で、おもむろに僕に切り出した。
「じゃ……家入には、システム開発を担当してもらうけん」
「……システム開発ですか」
「ああ。プログラム、少しは組めるんやろ。今日からはもっともっと覚えて、バリバリやってもらうけんなあ」
(ウェブデザインじゃないのか……)
 正直に言って、そのときの僕はすっかり落胆してしまっていた。入社するにあたって、僕は自作した片岡さんのホームページを社長に見せていたし、それに経歴から言っても、当然、ウェブデザインの部署に配属されるとばかり思い込んでいたのだ。だけど、蓋を開けてみると、僕の担当はウェブデザインとはまるっきり一線を画した、システム開発。
 一体何をするところなのかと言うと、ショッピングカートシステムや会計管理システムの開発を請け負う、バリバリにプログラムを組むのがメインの、いわば裏方作業。ウェブデザインを夢見て入社した、僕の期待は初日にして打ち砕かれてしまったのだった。
 それでも、せっかくまた働けることになったんだから、とにかく頑張ってみようと思った。もともとプログラムを組むのは嫌いじゃなかったし、好きなことを仕事にできるのはラッキーなことかもしれない。
 そんな思いに後押しされて、僕のプログラマーとしての日々がスタートしたのだった。

 手始めに社内用のデータ管理システムの開発を任された。ここでも、かつて押し入れの自室で孤独に学んだ古い技術が役立って、案外スムーズに進んだ。それが仕上がると、次は上司の下で外注のカートシステムの開発。
 手探りで一つ、また一つと仕事をこなしているうちに、システム開発の仕事も、段々と面白く思えるようになってきた。十代の頃、僕がやっていたものに比べると、インターネット時代のプログラム技術は飛躍的に進歩していて、こんなこともできる、あんなこともできる、そんな新しい発見に次々と遭遇する醍醐味(だい ご み)があった。
 システム開発は、納期が近くなればなるほど、時間との戦いになる。二、三日徹夜なんてしょっちゅうあるし、そんなとき、つい居眠りなんかすると、夢の中でもプログラムを組んでたりする。肉体的にも精神的にもかなりハードだったけど、それでも、仕事は楽しかった。

アキコさんと初めて会った日

 一方で、女子高生アキコさんとのメールのやり取りも、相変わらず続いていた。二日に一度くらいのペースで、好きな作家や芸術家について、また他愛ないお互いの近況についてメールを交換する。コンクリートジャングルで日夜懸命に働くサラリーマンにとって、唯一の心の癒しだった。
 あるとき、彼女からこんなメールがきた。

〈高校の文化祭で模擬店を出すのですが、ポスターを作ってもらえませんか? アキコ〉

 もちろんやります、と二つ返事で快諾(かい だく)。これを機に少しでも彼女と接近できれば……そんな思惑もあって、全身全霊で製作に挑んだ。全力でイメージを膨らませると、全力でフォトショップ(画像編集ソフト)を起動。全力でマウスを操作、そして全力で画像処理。
 かつてないほど、気合の入った仕事をした。これでいいのか? 改良の余地があるんじゃないか? そんな激しい葛藤なんかも経て、ようやく形になるとデータをビックカメラに持って行って出力を依頼。印刷には一万くらいかかったけど、彼女には「デザイン会社時代のつてがあるから、タダでやってもらいました」と嘘をついて、男らしく自腹を切った。
 ……なかなかいい。
 仕上がりを確認するのと同時に、ふと僕の中で、ある一つの疑問がわきあがった。果たしてこれを、どうやって彼女に渡す……? まさか手渡し? ……きゃー! 期待と不安と緊張とが入り混じる、複雑な心境の中で、僕はすぐに彼女に連絡した。

〈ポスターできました。坊主〉

 すると、彼女からの返信。

〈お手数ですが着払いの郵送でお願いします。アキコ〉

 そうきたかーっ……ガッカリする一方で、同じくらいほっとする気持ちもあったりしつつ、結局は言われるままに郵送したのだった(でも着払いにはしなかった)。
 とは言え、そんな地道な努力が功を奏して、彼女はポスターの出来に大いに満足してくれた。模擬店も大盛況だったと聞くと、何となく僕も嬉しくなった。顔の見えないやり取りの中では、こうして一つ一つ、時間をかけて、お互いの信頼関係を築いていくことが大事なんだと思った。事実、僕たちはこのときを境に、より親しくなっていったのだった。
 そんなやりとりを続けて、半年近く経とうとしていた頃のことだった。ある日の夕方、オフィスで淡々とプログラムを組んでいた僕のもとに、アキコさんから突如、メールが入った。

〈今、博多駅に来てます。もしお時間あったら、お茶でもどうですか? アキコ〉

 ……突然のお誘い。残業して当たり前の職場で、その時間帯に退社するのは絶対に考えられないことだった。お時間、あるかないかと言われれば紛れもなくなかった。
 でも、このチャンスはどうしても逃せない……。そう思うや否や、
「ちょっと出ます」
 僕は、そう言って、オフィスを後にしたのだった。

 高校受験より、初めてのバイトの面接より、何倍も緊張した。口の中がカラカラになったので、途中、自動販売機で水を買った。博多駅西口、みやげ物屋の側に、彼女が立っていた。
「……アキコさんですか」
 僕が恐る恐る尋ねると、彼女が言った。
「坊主さんですか」
 駅構内のしなびた喫茶店に入ると、向かい合って座った。友達と夕飯を食べてきたという彼女はアイスティーを、僕はコーラとチョコレートパフェを注文した。初めて実際に会う彼女を前に、がちがちに緊張していたから、あのとき何を話したか、今となってはほとんど憶えてない。ただ、彼女いわく、そのときの僕はというと「コーラを一気に飲み干し、がむしゃらにパフェをかっこみながら、滝のように汗をかいていた」らしい。

 あのときから一年もしない間に、まさか彼女が僕の奥さんになっていようとは、僕も彼女も、夢にも思わなかったのだった。

充実した私生活

 こんな僕に突如として訪れた、眩しすぎる春。
 あの日以来、僕と彼女は頻繁に会うようになり、自然な流れで付き合うようになった。折しも大学受験を控え、地元の筑後市から博多の予備校へ定期的に通っていた彼女。授業が終わる頃に待ち合わせて食事をしたり、知人の個展を一緒に見に行ったり、そんな他愛のないデートを重ねていた。女の子と過ごす時間が、こんなにも素晴らしいものだったのかということを、生まれて初めて僕は知った。色々あったけど、生きててよかったなあと、しみじみと思ったのだった。
 プログラマーとしての仕事も順調だった。
 意外にも仕事の納期をきっちり守っていた僕は、職場でも少しずつ信頼を置かれるようになり、簡単な仕事なら、一人で任されるほどになっていた。
 公私、共に順調。中学生だったあの日、一気にぶちっと音を立ててちぎれた、世の中と僕とを繋ぐ無数の糸が、一本、また一本と、長い時間を経て、再び繋がり始めている。そんな手ごたえを、僕自身、ひしひしと感じていた。

 ある日のことだった。隣の席の同僚、持永君が、僕に面白いサイトを見せてきた。
「家入君、先行者って知っとる?」
「ううん、知らん」
「サイト見てん。かなり面白いけん。はまるばい」
 先行者とは、中国で開発された二足歩行ロボットで、あのホンダ社製アシモにすら匹敵する最新ロボットとして、地元では華々しく報じられていた。ところが、その評判と見た目とに、あまりのギャップがあって、さながら小学校時代の、夏休みの自由工作を彷彿(ほう ふつ)とさせる、あまりにもやる気のない面構(つら がま)えに、これは面白い、と日本のネット界が騒然。たちまち、一大先行者ブームが巻き起ったのだった。
 ……で、ご他聞(た ぶん)に漏れずそんなブームに見事に取り込まれた僕。
 初めは色んなサイトを見て回っては単純に面白がっていたんだけど、そのうち第三者でいるには飽き足らなくなってきた。……で、ついには勢い余って、先行者ドットコムという独自ドメインまで取得してしまったのだった。先行者のことを取り扱う主要なサイトへのリンクをまとめた、いわゆる、先行者ポータルサイトを開設したのだ。話題に便乗したそのサイトは瞬く間に広く知られるようになり、開設直後から、連日一万ヒットを超えるアクセスを記録。ものすごい反響だった。
 考えてみれば僕はもともと無類のお祭り好きなのだ。やむを得ずしばらくの間、そんなにぎやかな場から遠ざかっていたものの、基本的にみんなが楽しそうにしている場ではついつい、いてもたってもいられなくなってしまう。ただ眺めて楽しむだけではなく、自分が楽しませたいと思ってしまう。子供の頃のことを振り返っても、どうもそんな性分があるらしい僕は、インターネットという目新しい世界で、再びそんな感覚を取り戻し、ワクワクしていた。

結婚、そして妻の妊娠

 僕とアキコさんが、初めて博多で会ったあのときから、半年が経とうとしていた。
 秋頃、彼女は、東京のある大学を一校受験したものの、結果は残念ながら不合格。幸か不幸か、福岡に残ることになり、彼女の卒業と同時に、僕たちは同棲を開始、そして間もなく、入籍した。
 博多駅から程近い福岡市薬院(やく いん)の、家賃六万円のワンルームマンションが、僕たちの最初の住まいだった。当時の僕の月給は十八万ほどで、それに、アキコさんがレストランでバイトして稼ぐ、六万円ちょっとが、当時の僕らの生活費。当然、そんなに贅沢もできない新婚生活だったけど、実際、そんなことは大して苦にならなかった。

 ある夜のことだった。
「おなか空いたなぁ」
 僕が何気なくそう呟くと、彼女が言った。
「うどん食べる?」
「食べる」
「……よし、分かった」
 ところが、三十分ほど経過しても、一向にうどんがやってくる気配がない。不思議に思った僕は様子を見に台所へ行ってみて……そして、ぎょっとした。アキコさんが、一心不乱に地団太を踏んでいるのだ。
「……ど、どうしたと?」
「こうするとコシが出るけん」
「コシ……?」
 よく見ると彼女の足の下には、ビニール袋に包まれた白い塊が。何と彼女は、うどんの麺を打っていたのだ。なぜこんな深夜に、そこから……。激しい動揺を隠せない僕に、
「一回、やってみたかったんだよねー」
 と彼女。彼女いわく、『いきなり!黄金伝説。超節約レシピ50』という愛読書の中に、安い小麦粉を大量に仕入れて、うどんを打ったり、パンを焼いたりするという節約調理法が紹介されていたのだという。麺の生地は、踏めば踏むほどコシが出るのだと知った彼女は、深夜に黙々と、人知れずうどんの生地を踏み続けていたのだ。
 もともとは、大手建設会社に勤めるお父さんと、自宅で英語教室を営むお母さんとの間に、何不自由なく育ってきた彼女。だからこそ、そんな彼女は、生まれて初めて直面する貧乏生活を、純粋に楽しんでいた様だった。何しろユニクロの服一枚から、デジカメで写真を撮ってネットオークションに出品するほどの徹底振り。配送料がかさんで、下手すれば店で買うより高くなるんじゃ、と思っていたら案の定売れなかった。彼女いわく、出品することに意義がある、と。
 極端な走り方で、毎日活き活きと小銭を稼ぐ彼女。貧乏生活歴でいえば最早(も はや)ベテランの僕には、極端すぎて理解しがたい部分もあったものの、なにはともあれ、そんな彼女のスタンスが功を奏して、家の中はいつも明るかった。

 ところが、そんな毎日に大きな変化が起きたのだった。
 入籍して、二ヶ月が経った頃、彼女の妊娠が判明したのだ。
 当時、僕は二十二歳、アキコさんは十九歳。そんな僕たち夫婦を見て、受診した産婦人科の医師は、おめでたです、と神妙な顔をして告げた後、どうするかよく話し合ってまた来てください、と付け足した。
 若さ、未熟さ。そして心もとない僕の収入。改めて思えば不安な要素はあり過ぎるほどあった。……でも、僕はそのとき、ただ手放しで嬉しかった。新しい家族が増える、そう思うと、どうしようもなく、ワクワクした。
 ところが、喜ぶ間もなくそんな僕たちを襲ったのは、アキコさんの壮絶なつわりの日々。
 一般的に妊娠初期、大体三、四ヶ月ごろまでに表れるというつわりの症状、程度は人によって様々というけれど、アキコさんの場合、特に重い、悪阻(お そ)といわれるものだった。
 食べたものを戻す、そんなのまだまだ序の口で、日を追うごとに、食べ物の匂いだけで戻す、食べ物の映像だけで戻す、水分すら、飲めば飲んだ以上に戻す、そんな底なしの嘔吐地獄が過酷さを増していく。当然、バイトにも行けなくなってしまった彼女は、平日、僕が仕事に行っている間、狭いワンルームマンションに一人閉じこもって、吐いていた。
 そんなわけで、その当時、仕事中の僕の携帯には、彼女から頻繁に電話が掛かってきていた。
「もうだめかもしれん……」
 涙ながらにそう言って、弱々しく救いを求める彼女。機種変更したばかりの携帯電話の匂いですら気持ち悪いと言って、必要最低限の電話しかしなくなっていた。そんな彼女が、こうして匂いを我慢してまで、僕に助けを求めている!
 僕だってなるべくなら、ずっと家にいてやりたいと思った。吐いては泣き、泣いては吐く、を繰り返して、妊娠して以来、三ヶ月で十キロも痩せてしまった彼女(その点では本人は喜んでいた)。そんな彼女を一人残して仕事に行くのは僕だって気が引けた。
 でも、子供が生まれることを考えると、働かなくちゃいけなかった。お金は、切実に必要だった。

 お金なんて、ないならないで幸せになれると、多くの人が言う。
 確かに、それはそうだと、僕も思う。幼い頃に過ごしたボロ屋のカビ臭い匂いや、月に一度、楽しみにしていた外食の味は、大人になった今でも、決して忘れることのできない大切な思い出で、お金がなくたって、あの頃の僕は、確かに最高に幸せだったからだ。
 ……だけどもし、そんな僕の家に、もう少しだけ、お金があったら。
 父さんと母さんが離婚して以来、僕はどうしてもそのことを考えずにはいられなかった。睡眠時間を極限にまで削って、昼も夜も、仕事に追われていた父さん。仕事と家事とを一人で背負って、一日中、ろくに座る暇さえなかった母さん。離婚が決まったとき、肉体的にも、精神的にも、二人はどん底まで疲れ果てていた。
 もし、父さんがもっとゆっくりと眠れる時間があったとしたら?
 もし、母さんが、三回に一回でも、自分の欲しいと思った服やバッグを買えるだけの、経済的なゆとりがあったとしたら?
 ……もしかしたら僕たち家族は、別の形で今を迎えられていたんじゃないだろうか。

 考えてもしょうがないことは分かっていた。それに、父さんと母さんにとって、離婚という結果は、必ずしも僕たちが考えるほど悲惨なものじゃなかったのかもしれない。案外本人たちは、新しいスタートだと、あっさり割り切れているのかもしれない。でも、いざ僕に奥さんができて、子供が生まれる、新しい家族ができる。そう考えたとき、お金なんてなくたって何とかなる、そんなふうには、どうしても言い切れなかった。
 アキコさんや、生まれてくる子供と、幸せな家族を作りたい。家族が一緒に過ごす時間を、大切にしたい。そう思う一方で、生活していくのに十分な資金を稼がなくちゃいけない、そんな現実的な問題が、僕の頭の中で大きく対立していた。どちらかを犠牲にすれば簡単に解決する。そのことはよく分かっていたけれど、でも僕は、どうしてもそうしたくなかった。

(どうすれば……?)
 考えに考えた末、僕は、ある一つの決断をしたのだった。

次の章第五章 ペパボ黎明期

目次

全文公開にあたって
プロローグ 
第一章 貧乏な家に生まれて
第二章 「ひきこもり」だったあの頃
第三章 長いトンネル
第四章 起業前夜
第五章 ペパボ黎明期
第六章 成功、そして未来へ
エピローグ
新装版にあたって
解説 佐々木俊尚

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