こんな僕でも社長になれた - 第三章 長いトンネル
大学に行きたい
そんなこんなで、絵を描き、詩を書くだけの気ままな生活は相変わらず続いていた。……と言っても、十八にもなって働かない、両親の脛(すね)をかじり続ける堕落した生活には、僕自身、いい加減に嫌気が差していた。
(働かなくちゃ……)
そんな思いは日増しに大きくなっていくのに、相変わらず外に出るのも、人と話をするのも嫌だった。
(このまま一生、誰とも会わずに家の中で絵を描いていられたらいいのに……)
いつからか僕はそんな風に思うようになっていた。
そんな、ある日。仕事から帰ってきた母さんが、ふと僕の部屋にやってきて、言った。
「一真、『だいきん』って、知ってる?」
「……知らん」
「だいきんっていう制度があるらしいんよ、だいきん。『大学入学検定』を略して、だ・い・き・ん」
「……『大学入学検定』の略なら、だいきんじゃなくて『だいけん』じゃないと?」
「あぁ、そうやった」
「……」
母さんはひどい天然で、会話はいつもこんな調子だった。
それはさておきこの「大学入学検定」、正確には「大学入学資格検定」といって、高校に進学しなかった人や、進学しても僕のように中途退学した人が、試験に合格することで高校卒業と同等の資格を与えられる──一言で言えば大学受験の資格を与えられる、という制度だ。通称、大検と呼ばれているもので、今では随分と知られるようになったものの、当時の認知度は今より遥かに低かったから、僕は、まさかそんな都合のいい制度があるなんて、夢にも思っていなかったのだった。
(高校も卒業していないのに、本当に大学に行けるのかな……)
僕は少し、興味を持った。
「……本当にそんなのがあると?」
「うん。さっき、お母さんの友達が教えてくれたと」
「……本当に本当?」
「こんなこと嘘ついてどうするん。本当よ。確かな情報」
「……へぇ」
(……僕も、大学に行ける)
高校中退。それは、確かに僕が、僕の意思で決めたことだった。でも、本音を言えば、そこに僕自身、大きなしこりを残しているのも事実だった。多くの人がやり遂げていることを、僕だけがやり遂げられなかったということに、少なからず負い目を感じていたのだ。
でも、それもこれも、母さんの言う大検というものを受けて、晴れて僕が大学に入学できさえすれば、全部解消されるような気がした。大学に入学して、素敵なキャンパスライフを送る僕。たくさんの友達に囲まれて……もしかしたら彼女だってできて、卒業して社会人になったらその彼女と丁度いいタイミングでゴールイン……なんて、思い描いた未来は、そんなに悪くなかった。少なくとも、このままでいるよりは格段にいい。そこで僕は、瞬時に決断。
大学に行こう。
大学にさえ行けば、今度こそ本当にやり直せる気がした。勉強も、人生も、本当にリセットするために、僕に残された道はそれしかない、と思った。……じゃあ一体、大学で何を学ぶのか? そう考えたとき、僕の頭にあったのはただ一つ、絵を描くということだけだった。
(美大で絵を学んで、画家になりたい!)
言いようのない、強い感情が、ふつふつと僕の心の中に湧き上がっていた。念願のリセット。今度こそ、それができる気がした。
「あ……でも、母さん」
僕には一つ、気がかりなことがあった。
「なに?」
「僕が大学に行くようなお金、うちにあるん……?」
「お金……? あ、あるよ」
「……本当?」
「……うん」
案の定、母さんの目は一瞬露骨に泳いで、僕は全てを察した。大学進学に際して、家に、甘えられるお金はない。ただ、考えてみれば、そんなこと初めから分かっていたことだった。僕だって、これ以上、父さんと母さんに負担をかけたくない。
(やるしかない……)
そこで僕はついに、ここへきて、至って自然な流れで、ある一つの大きな決意を固めたのだった。
「母さん、僕、バイトする」
台所に立って、夕飯の支度を始めていた母さんに、僕はいきなり、そう告げた。
「わぁ、びっくりした。なんね一真、いきなり」
母さんは目を見開いて、何秒かの間その場に固まってしまった。僕はもう一度、
「僕、バイト、するけん」
そう言い残すと、自分の部屋へと戻った。
正直に言って、自分でも不思議だった。つい昨日まで、どれだけやろうと考えても思い切れなかったこと、恐怖や不安ばかり先走って、どうすることもできなかったことに、突然踏み切る決心がついた。働くしかない、そう思い立った瞬間の僕には、実行する以外の選択肢はなかったのだ。
その夜、家族が寝静まるのを待ってから、僕はアルバイト情報誌を買いに家の近くのコンビニへ向かった。外で働く意思は固まったものの、いつ知り合いと出くわすかも分からない昼間のうちに、いきなり家の近くを出歩くには、やっぱりまだ少し抵抗があった。その点、夜中ならばったり誰かに会うこともないだろう、と僕は思ったのだ。
けれども、久しぶりに歩く田舎の夜道は、妖怪とか暴走族とか色んな恐いものが、いつ、どこから現れても不思議じゃない。そんな不気味さに満ちていて、コンビニまでの道を、僕はずっとびくびくしながら歩いた。そんなわけで、やっとコンビニまでたどり着いたときには、心底ほっとしたけれど、それも束の間、今度は店内で買い物をする自分の仕草が不自然じゃないかどうか、「これください」とどもらないで言えるかどうか、小さなことが一つ一つ気になって落ち着かない。で、結局はやっぱり上手くできずに、落ち込んで。
まだまだ本番はずっと先なのに、働くって大変なことだなあ、と僕は気が遠くなる思いをしたのだった。
深夜、パン工場でアルバイト
働くと決めてから数日間、僕はバイト情報誌を片っ端から読み込んで、良さそうな職場をあれこれ探した。希望する条件としては、第一に接客業じゃないこと。スマイルを0円でご提供するには、僕にはまだまだ越えなきゃならないハードルがたくさんあり過ぎた。それから、自転車での通勤が可能なことや、できれば深夜勤務なこと、などなど。でも何より、僕なんて雇ってもらえるのかどうかが一番の大きな問題だった。
けれども幸運にもそれから間もなく、僕に生まれて初めてのアルバイトが決まった。
大手パン工場での、望んでいた深夜勤務。ベルトコンベアに乗って延々と流れてくるひな祭り用ミニケーキのドーム型容器のふちに、一つ一つシールを貼っては、再びラインに戻す、そんなこれ以上ない単純作業が、僕の初仕事だった。
だだっ広い工場の中に、うねうねとカーブしながら途方もない長さで伸びるベルトコンベア。巨大な機械のトンネルの中を通過して、右に、左に、上がったり下がったり。時々、五メートル近い天井付近に到達する様子は圧巻だった。薄暗い深夜の工場の中を照らす、白々とした蛍光灯の明かり。そのすぐ脇で、太い配管や色とりどりのケーブルがむき出しのまま、天井中にぎっしりと這っている。
……そんな、圧倒的に無機質な空間の中で、全員同じ水色の作業服に身を包んだ僕たちが、ところどころに点々と配置され、何時間も何時間も、ただひたすら一つの作業を繰り返す。シールを貼る、ベルトに戻す。シールを貼る、ベルトに戻す。シールを貼る、ベルトに戻す……。
そこで働いている間、僕はすっかり、自分が機械の部品の一つになったように感じていた。周りで、僕と同じように作業する水色の人たちの顔からは、人間らしい表情が完全に抜け落ちていて、そんな様子に初めはぎょっとした僕もまた、一日も経てば同じ顔で作業するようになっていた。
本当のところ、そこでのアルバイトが決まる以前にも、僕はいくつかのバイトの面接を受けていた。履歴書を持って、僕の持っている中ではマシなほうのTシャツとズボンを着て現場に赴く。
「で、で、電話した、家入です」
近くの人に声をかけて担当者を呼んでもらい、履歴書を手渡す。
「あなた、家はこの近くですか?」
「あ、はい……」
「希望の時間帯はありますか?」
「え、えっと……」
緊張するあまり言葉の節々はどもり、会話は八割方不成立だった。滝のように汗をかいた。
「交通費は必要ですか」
「い……いりませ……じ、自転車でくるので……」
「以前バイトの経験は? ……あなた、高校生?」
「……ちがいます」
「大学生?」
「……いえ」
中には高校中退、ということを打ち明けた途端、露骨に眉間にしわを寄せる人もいた。高校中退で、基本的なコミュニケーション能力に乏しい。その上汗っかき(は関係ない)。そんな僕は当然、いくつかの面接先で立て続けに不採用となって、すっかり意気消沈。そんな矢先、奇跡的にようやく決まったのが、このシール貼りの仕事だった。
作業中、誰とも話をしなくていい、ここでの仕事は、僕にとって好都合だった。おまけに特別難しい作業も必要なし。ひな祭りが終わるまでの短期契約だったものの、社会復帰の足がかりとして、僕にとっては願ってもないバイトだった。時間中、機械的にただ手だけを黙々と動かしながら、これまでのこと、これからのこと、家族のこと、僕のこと、いろんなことを、ただ、ぼうっと考えていた。
パン工場での契約を終えて、僕が次に雇われたのもやっぱり工場。今度は、和菓子を作る製菓工場だった。僕の担当はあんこ係。砂糖袋ほどの大きさの、透明な袋に密封されているこしあんを、巨大なかくはん機の中に投げ入れる、それが僕の仕事だった。
包丁を使って、あんこの袋の表面に、アルファベットの「H」のように切れ目を入れる。それを上手い具合にかくはん機の上でひっくり返すと、あんこはきれいに袋からはがれて、かくはん機の中に落ちる。でもこれにはなかなか微妙なコツがいって、うまくいかないと袋の中にべちゃっと半分くらいあんこが残ってしまったり、かくはん機の外にあんこが落ちてしまったりする。同じ工場での作業でも、前回のシール貼りとは打って変わって、なかなかに技術のいる仕事だった。
僕は何とか上手くやろうと果敢に挑むのだけど、何度教わっても一向に上達しない。それで当時、僕の指導係だった先輩のおばちゃんからは毎日のようにこっぴどく叱られていたのだった。
「あんた、全然、上手くならんねえ!」
「真面目さが足りんのやろ」
「遊びじゃないんよ」
「本当……駄目ねえ」
毎日毎日、あまりに強烈な雷を落とされて、僕はすっかりしょげ返っていた。
だから……というわけじゃ決してなくて、本当にあれは、紛れもない事故だったんだけど、あるとき、かくはん機の上でひっくり返したはずのあんこが、なぜか僕の足元でしゃがんで作業していたおばちゃんの頭の上に、誤って落ちてしまったのだ。
ボトッ、鈍い音とともに、たちまち全身、あんこまみれになるおばちゃん。
「……ぁぁあんたっ、なぁんしよんのぉっ!」
おばちゃん、絶叫。
「す、すすみませんすみません……すす……」
(……とんでもないことをしてしまった)
僕は頭の中が真っ白になって、ただ繰り返し平謝りに謝った……んだけど、あまりにパニックになりすぎて、あろうことか途中から、わけもなく笑いがこみ上げてきたのだ。
「……すみません、すみません、す……ぷっ……」
だめだ、絶対にここで笑っちゃいけない、笑っちゃいけないと、何とか必死に抑えようとするのに、そう思えば思うほど、僕の中で笑いたい欲求はどんどん高まって、つい口の端がゆがんでしまう。そんな態度が怒り狂ったおばちゃんにますます油を注ぎ、僕は重ねて平謝り……ぷっ。
今思い返しても、ひどい修羅場だった。結局、その工場からは、三ヶ月も経たずに、
「明日からしばらくお休みを取ってください、また、来てもらうときはこちらから連絡します」
という通達を受け、僕は長いお休みに入ったのだった。
あれからもう十年ほど待ったけど、未だに「また来てください」の連絡はなし。……関係者の皆さん、僕は、待ってます。
「気持ち悪い」と言われ
そんなこんなで、最初のバイトから半年も経たないうちに二度もバイト難民となってしまった僕。インドアな生活から一転、突然めまぐるしくアウトドアしてしまった疲れもあって、僕はしばらくの間、新しいバイトを探すのをやめ、充電期間を設けるつもりでいた。
……ところが、周囲は決してそれを許してくれなかった。
顔を合わせるたびに、
「一真、次のバイトは見つかったんか?」
と、父さん。僕がなるべく控えめに、まだ、ということを伝えると、
「駅前の○○でバイト募集の貼り紙が出とったぞ」
「父さんの知り合いの△△が雇ってくれるって言っとるが」
果ては、そんな父さんへの体裁を取り繕うつもりで僕がとりあえず買っていたバイト情報誌を、いつの間にか僕以上に深く読み込み、
「ここに載っとる□□はいいんじゃないか」
なんて、絶えず働き口を探そうと、僕に代わって奔走してくれるのだ。
恐らく父さんの中では、僕が今ここで働かなくなってしまえば、また元の生活に逆戻りしてしまうんじゃないかという、そんな不安があったんだと思う。そしてそのときには気付かなかったけれど、当時の僕に、その危険性は大いにあったと今思う。
結局、そんな父さんの果敢なアプローチに屈する形で、僕はやむを得ず、すぐにまた働くこととなった。
これまでと同じように、バイト情報誌で見つけた三つ目の仕事は、家から自転車で十五分くらいのところにある、ステーキレストランの厨房。ディナータイムともなれば常時四、五人のコックがフル稼働する、地元では割と大きいほうだったその店で、新人の僕が最初に任されたのは「仕込み」の作業だった。米を研ぎ、炊く。タマネギをスライスして、水にさらす。サラダに使う野菜を一口大にカットする。相変わらず僕は要領が悪くて、何度教わってもテキパキと仕事をこなせないので、先輩からはしばしば口うるさく注意されていた。そんな中でも、僕の唯一の楽しみは、テールスープのテールを、こっそりつまみ食いすること。異様に美味かったのだ。
当時そこで働いていたコックのほとんどは、僕と同じでバイトとして雇われている、地元の大学生たちだった。そのせいで厨房全体にはいつも、大学生特有の健康的で明るい、サークルのようなムードが漂っていて、僕はいつも、たまらない居心地の悪さを感じていた。そんな状況は、働き始めて随分日が経っても一向に変わらず、みんな和気藹々(わ き あい あい)な中で、僕だけが一人黙々と仕事をし、休憩時間には、黙って食事を取るのだった。
そんなある日。一通り仕事を終えて、向かった休憩室の入り口で、僕は思いがけない会話を耳にしたのだった。
「……新しく入った家入ってやつ、気持ち悪くねえ?」
「笑わんし、喋らんし……何考えとるか分からんっちゃ……」
ガーン。
僕の目の前は真っ暗になって、胸がズキズキと痛んだ。無意識に頭の中でさっきの会話を何度もリピートしてしまって、顔がかっと熱くなって、涙が出た。
厨房の中で僕一人だけ浮いてる、そのことは自分でもよく分かっていた。分かっていたけど、それでもこんな現場に遭遇してしまうなんて、今さらながらあまりにもついてなかった。こんなとこ、一日も早く辞めたい。僕には向いてない。逃げ出したい。
それまでにも増して、居心地の悪さを感じるようになった僕にとって、ただ一人、心の支えとなってくれた人がいた。当時、レストランでパートとして働いていた、山崎さんという五十代くらいのおばちゃんだった。
「家入君、大学生ね?」
最初、山崎さんは、厨房で黙々と米を研ぐ僕に、そう言って話しかけてきた。最も触れられたくない質問に、僕は何となくぶっきらぼうに答えた。
「……いえ」
「じゃあ、高校生?」
「……ちがいます」
「分かった、浪人生やろ、違う? あれ、違うん?」
おばちゃんならではの遠慮ない追及に屈し、僕もとうとう、自分が高校を中退したこと、今は大学に進学するために、大検合格を目指していることなんかを、正直に打ち明けた。
「そうねえ……家入君も、色々、大変なんねえ」
僕の話を一通り聞いて、山崎さんはそう言った。
その日以来、僕はなぜだか不思議と山崎さんにだけは、これまでの自分のことや、これからのことなんか、少しずつだけど話せるようになったのだった。山崎さんはいつも、叱るでもなく、意見するでもなく、ただ僕の話に黙って耳を傾けてくれた。そんな山崎さんは、気まずい職場の中で唯一、僕の救いとなる存在で、さながら二番目の母さんのように感じられた。
……でも結局僕は、大検受験に備えるという名目で、三ヶ月も経たないうちにそのレストランを辞めてしまった。最後の日、僕がそのことを山崎さんに伝えると、
「家入君、頑張ってね」
山崎さんはそう言って、優しく笑って、僕を送り出してくれたのだった。
大検には合格したものの……
レストランのバイトを辞めてからというもの、僕は大検合格を目指し、ひとまず勉強に精を出した。大検は、試験全体のレベルはそんなに高くない代わりに、国語も数学も歴史も理科も、そして家庭科も、全部の科目で一定の点数を取らなければ合格できないので、決して気は抜けないのだ。特に僕は小学生の頃から国語と歴史が人よりちょっと得意、それでいて数学と理科は人よりちょっと苦手な、根っからの文系タイプだったから、大いに不安があった。
……でも、蓋を開けてみれば何とか奇跡的に、合格。僕も晴れて、大学を受験することを許されたのだ。
で、さっそくその次の年、力試しを兼ねて地元の大学の油絵学科を受験したところ、信じられない話だけど結果これまた、見事に合格。とんとん拍子のサクセスストーリーで、ついに僕にも、念願の大学生生活がやってきた……かと思いきや、それには当時の僕は、あまりに純粋すぎたのである。
(こんな実力で簡単に合格するような大学じゃ、行く意味がない……)
生真面目にもそんな風に考えたが最後、決断は一瞬だった。
「父さん、母さん。僕、○○大には行かんけん」
息子の大学合格の一報を、さも自分のことのように喜んでくれていた父さんと母さんは、そんな僕の言葉に目をむいた。
「……あんた何言いよん! せっかく受かったんやから、ちゃんと行きなさい!」
「お前、何のために受けたんか分からんやないか、もったいない!」
「でも……行かん。僕、もっと上の大学を目指すけん」
ようやく掴みかけた再起のチャンスを、ここへきて自ら棒に振ろうとしている愚かな息子。考えを変えさせようと父さんと母さんは必死だった。
「受かったのに行かんのは人の道に背くことよ」
「大学行かんで、これからお前、どうするっちゅうんか。また前と同じやないか」
「……バイトして、自分でお金稼ぎながら、予備校に通う」
「予備校?」
実を言うと、僕はその少し前に、美大受験のための絵の予備校があるということを、何かでたまたま知って、ずっと興味を持っていたのだった。前のようにバイトをして、学費をまかないながら、そこで絵の勉強をしたい、そしてもっと難しい大学を目指したい……そんな風に思っていた。ところがそう言う僕に、語気を強めて父さんは言った。
「金を稼ぐのはそう甘いもんじゃないんやぞ、お前もバイトしてよう分かったやろう」
その瞬間、僕の頭の中に、パン工場のあの無機質な空間や、製菓工場であんこまみれで怒り狂うおばちゃんの顔、そしてレストランの厨房で運悪く耳にしてしまった僕の陰口、そんな記憶が走馬灯のように映し出されて、途端に何も言えなくなってしまった。ましてや、新しいマンションに引っ越してからというもの、毎晩二、三時間の睡眠しか取らず、いくつもの仕事を掛け持って僕たちのために働いてくれている父さんのことを思うと、嫌が応にもその言葉の重みを感じずにはいられなかった。
「わざわざ遠回りして、そのぶん余計に大変な思いをするのは、お前なんやぞ」
すっかり黙り込んでしまった僕に、父さんは静かに言った。
このまま、父さん、母さんが言うように、素直に地元の大学に進学するべきなのか。でも……。決めかねたまま、入学手続きの締め切りが間近に迫っていた。
そんなある日、僕はたまたま目にしていた新聞で、思いがけない広告を目にした。
「新聞奨学生募集──朝夕刊の配達、集金などの業務に就きながら、大学、専門学校、予備校などに通う奨学制度です」
これだ! と思った。朝夕の新聞を配るだけで予備校の学費もまかなえるし、そのうえ食費が出たり、下宿先を用意してくれたりもするらしい。しかも学費の返済不要……これなら僕にだってたぶん、やれる。そう思った瞬間に、決めた。
「父さん、母さん。僕、新聞奨学生になるけん!」
住み込みで新聞配達
子供の頃のことを思い出していた。
月に一度の外食の日。帰りの車の中で、僕はどうしても本屋に寄ってもらいたいんだけど、もともと気分屋で、運転中にはなおのこと神経を尖らせる父さんに、どうしても自分からそのことを打診することができず、
(本屋行きたい! 本屋、行きたい!)
そんな声なき声を発しつつ、後部座席から助手席の母さんの腕を、しきりにせっついていたことを。
僕は父さんの運転するトラックの助手席に乗って、福岡市内をひた走っていた。福岡市までは宗像から約一時間とちょっとという道のり。目的地は東区、箱崎(はこ ざき)という海辺に隣接した町だった。足元には服や下着を詰めた大きなボストンバッグが一つ、外の荷台には画材や本を詰め込んだダンボール箱が二つ、乗せられている。
父さんは信号に引っかかるたび小さくチッと舌打ちをして、僕はその都度、横目でそっと父さんの顔色を伺う。子供だったあの頃とまるで変わらない父さんがいて、子供だったあの頃と、随分色々変わってしまった僕がいて。
……そんなこと、考えるでもなく考えながら、ぼーっと窓の外を眺めていた。たくさんの見慣れない建物を経て、車はようやく箱崎にさしかかろうとしていた。通りすがりざま、連なって立ち並ぶ巨大な倉庫の向こう側に一瞬だけ海が見えて、僕はふと、宗像のことを思った。僕が今日までずっと育ってきた町。父さん、母さん、妹、弟のいる町。ついさっき離れたばかりの地元なのに、どうしてか無性に懐かしく、遠いものに思えた。
新しい生活が、始まろうとしていた。
無駄に広い片側二車線道路。その両脇には車を走らせる限り、うどん屋、パチンコ屋、ジーパン屋、中古車屋なんかが延々と連なっている。海風のせいか店も看板も、行き交う車も、全体的に茶色く錆びかかっていて、その点では宗像だって同じはずなのに、不思議なことに町全体の雰囲気は、宗像とは全く別のものだった。
少し入り組んだ路地へ入ると、小さな木造の古い家が隙間なく立ち並び、軒先では爺さんが何をするでもなく、ただ椅子に腰掛け、口を開けて呆けていた。スーパーのレジ袋を提げた険しい顔のおばちゃん、猫に縄をつけて散歩させている婆さん、白ジャージに皮のハンドバッグ、金のネックレスの眩しい、一見してそれと分かる明らかにカタギでない男の人……。殺伐としている。それが、箱崎という町への、僕の第一印象だった。
(僕、ここでやっていけんかもしれん……)
町の雰囲気だけでいきなり挫折しそうだった。
そんな道のりを経て、車はついに僕がこれからお世話になる配達所に到着。ボストンバッグを抱えて車を降りると、父さんと共に一番に、所長さんのところへ挨拶に向かった。
「こんにちは」
入り口から父さんが声を掛ける。間もなく、はーい、と低い声がして、中から身長百八十センチほど、胸板のやたら厚い、たくましい男性が現れた。こ、怖い。その迫力の体格に、僕は思わず一瞬硬直。そんな僕をよそに、父さんが深々と頭を下げながら言った。
「どうも、家入です。今日から息子がお世話になります、どうぞよろしくお願いします」
「……い、家入一真です。よろしくお願いします」
僕も慌ててそれに合わせる。
「あー、どうもどうも、所長の田久保です。家入君、よろしくなぁ」
見た目とは裏腹に、のんびりとした、穏やかな口調で所長さんが言った。少し遅れて、奥から柔らかい物腰の、優しそうな女の人が出てきた。所長さんの、奥さんだった。
「いらっしゃい家入君。よろしくね。困ったことがあったら何でも相談してね」
「よろしくお願いします」
親切そうな所長さん夫婦に、僕は少し、ほっとした。
僕が働くことになった西日本新聞・箱崎営業所は、所長さんとその奥さんを中心に、一人の社員と、十人ほどの配達員からなる小さな営業所だった。九州大学や、九州産業大学といった、大学のキャンパスが多くある箱崎の土地柄、ほとんどの配達員は昼間学校に通い、朝夕に新聞配達をする、僕と同じ奨学生。大学に通う人もいれば、僕のように予備校に通う人もいる。中国からの留学生なんかもいた。
通常、新聞奨学生は、営業所で借りてもらった近くのアパートに住んで、朝、夕の食事時だけ、営業所を兼ねた所長さん自宅で、奥さん手作りのまかないを食べる。でも、所長さんの家の裏庭にも、二、三人が住める寮のような離れが建てられていて、当時、配達員の中でも最年少だった僕は、所長さんの配慮もあってか、とりあえずそこで新しい生活を始めることになった。
「はいどうぞ、ここが家入君の部屋よ。今朝、簡単に掃除したけん、すぐお布団敷いて寝てよかよ。ちょっと狭いけど我慢してね。私たちもおるし、お隣には先輩の田中君もおるけん、分からんことがあったら何でも聞くんよ」
所長さんの奥さんが案内してくれた僕の部屋は、畳張りの四畳半一間。奥さんは狭いと言ったけど、かつて、マンションに引越しする前に僕が使っていた押し入れから考えれば、はるかに広々とした快適な住まいだった。机と椅子は最初から置かれていて、風呂、トイレ、洗濯機や冷蔵庫なんかは、別室の、他の配達員と共同のものを使う。
僕の後から、所長さんと父さんがそれぞれダンボール箱を運び込んでくれて、一瞬で引越しは完了。父さんは部屋の入り口に立ったまま、ぐるっと一度、中を見渡すと、
「じゃ、父さんは帰るけん」
と言った。
「……え、もう?」
「父さん今夜、仕事やけん。お前も明日から早いんやろう、早く寝ろよ」
「……分かった」
「頑張れよ」
「うん、ありがとう」
少し泣きそうになった。
「じゃ、失礼しますんで。どうぞ、よろしくお願いします」
所長さん夫婦に、最後にもう一度挨拶をして、父さんは宗像へと帰って行った。
小さくなるトラックをずっと目で追っていた僕の肩に、大きな手をそっとかけて、所長さんが言った。
「頑張らんといけんなぁ」
……頑張らんといけん。
仕事は午前三時から
次の日から、さっそく仕事が始まった。
午前三時過ぎ。早朝、というより、どちらかと言えばまだ夜と言っていい時間帯。多くの人が、暖かな布団でぐっすり眠りについている頃、小さな営業所の中にはすでに蛍光灯が明々と灯され、長方形の作業台を取り囲むようにして、十人ほどの配達員が集まっていた。
「ちょっと、みんな聞いてくれ。……こいつ、昨日新しく入った家入。うちの裏に住むことなったけん、お前たちも色々教えてやってくれな」
作業の最初に、そう言って所長さんが僕を紹介してくれた。
「よろしくお願いします」
僕が頭を下げると、うーす、と地鳴のような低い声が所内に響いた。
「……じゃー、さっそくやけど片岡。家入に仕事教えてやってくれ。家入、片岡の隣、入って。あの首からタオルかけとるやつな」
「はい」
狭い所内、人や障害物をよけながら、所長さんに指示されたとおり、首からタオルをかけた片岡さんという人の隣へ入った。片岡さんは、見るところ二十代前半、そんなに身長は高くないけど、とにかくやたら首の太い男の人だった。そのうえ近くに寄ると、首だけではなく腕もかなり太いことが分かった。太っているというより、引き締まっているのだ。所長さんといい、この人といい、やたらムキムキした人の多い配達所だった。
「……よ、よろしくお願いします」
言われたとおり片岡さんの隣に入り、恐る恐る声をかける。すると、片岡さんは台の上で黙々と手を動かしながら、横目でちらっと僕を見て、言った。
「おっ、クソ坊主」
え……?
今この人、確かにおかしなこと言ったよね? と思う一方で、でもまさか、初対面の相手に、いきなりそんなこと言うわけない、ましてや大の大人が……。そんな風に思って、僕は改めて聞き返した。
「……すいません、よく聞こえなくて。今何て……?」
「……坊主~坊主~、クソ坊主~」
「……」
背筋が凍る思いがした。聞き間違いなんかじゃない。……この人は明らかにクソ坊主と言っている! しかも二度目は妙なメロディになっていた。会話の流れと、僕の髪型から言って、クソ坊主とはかなりの確率で僕のことらしい。でも僕には、この片岡さんという人に、初対面でいきなりクソ坊主なんて言われる理由が全然見つからないし、ましてや他の人たち……昨日はあんなに優しかった所長さんまでもが、そんな暴言について何のお咎(とが)めなしなのも理解できない。ちらっと周りを見回しても、全員見事に何事もないかのように黙々と作業しているのだ。
……もしかしてこの人、所長さんでさえ手がつけられない、ヤバイ人なんじゃ。そんな人に、初日につくことになった、僕。……絶望的な気分になった。
堂々と見る勇気もなく、横目でちらちら観察していると、まだ深夜にはかなり冷え込むこの季節、他の人はみんなジャージとかジャンパーをシャツの上から羽織っているのに、片岡さんだけは、首のびろんびろんに伸びた白の半袖シャツ一枚という軽装過ぎる軽装。首から下げたタオルが防寒具的な役割を果たしているのかもしれないけど、もしかするとこの人は、寒さすら感じないのかも……。激しい動揺のあまり、僕がただ呆然と立ち尽くしていると、片岡さんが再び、おもむろに口を開いた。
「……おい、クソ坊主! ボーっとするんじゃねー! あんまりボーっとしてっとなあ、頭の中までなぁ、どろんどろんに腐ってなぁ、べっろんべっろんになってなあ、そのうち本当のクソになっちまうぞ、おー汚い汚ねっ。ヒーッ。早く手を動かしやがれ! ……新聞になあ、こんな風になあ、チラシをなあ、挟むったい……っはい、これがお前のぶん。しっかり働けよ、このクソ坊主。……ぁ坊主~坊主~クソ坊主~」
……ムキムキの体から恐ろしく汚い言葉が発せられている、というのに、どう考えても不思議なんだけど、理不尽なまでに威圧感がなかった。
色んなことが釈然としないまま、とりあえず僕は言われた通り、仕事に取り掛かった。割り当てられた新聞にチラシの束を挟んでいく。一つ挟んでは新聞を立てて、トントンと折り目の部分を机に打ちつけて、端をそろえる。一つ挟んではトントン、一つ挟んではトントン。
調子よく進めながら、ふと何気なく片岡さんの手元に目をやって、ぎょっとした。異様に早い。僕が一部終わらせる間に、片岡さんは神がかり的な手つきで三部くらい終わらせているのだ。新聞を手に取り、チラシを挟み込んで、トントン、その過程に微塵も無駄な動きがなく、流れるようになめらか。そのうえ、よほど余裕があるのか、小さく鼻歌まで口ずさんでいる。
「……うず~ぼうず~、クソぼうず~……」
……僕の歌だった。
何なんだ、この人は。
大きな衝撃と激しい動揺とともに、新聞配達員としての僕の新たな生活が始まったのだった。
目指せ、東京藝大!
新聞を配る。 一言で言うと簡単そうに聞こえても、新聞配達という仕事はその実、決して楽なもんじゃないのだった。雨にも負けず、風にも負けず、自転車の前と後ろに山のように新聞を積み上げて走る。あまりの重さに、何もないところでもバランスを崩して転倒してしまうし、転倒したはずみでばらばらに散らばった新聞は、地面に這いつくばって一つ一つ拾い上げなくちゃいけない。挟んであったチラシがどばっとこぼれたら、また一つ一つ挟み直さなきゃいけない。何もかも、泣きたくなるくらい地道な作業なのだ。
箱崎に住み始めて、一ヶ月。とりあえず自転車じゃ埒(らち)が明かないということに早々に気が付いて、原付バイクの免許を取った。バイクは持ってなかったけど、営業所には配達用にスーパーカブが用意してあって、それを使い出してからはぐっと効率が上がった。チラシの折り込みも以前に比べると少しは板につくようになってきた。超早起き生活にも、ずいぶん身体が慣れてきた。初めての給料、約六万円が支給された。
同じ頃、予備校も始まった。
その年、僕と同期で入校したのは三人。全員が高校時代からデザインや絵を専門に学んできている学生ばかりで、木炭や食パン、練り消しの使い方を全然知らないのは僕だけだった。
……木炭はこう持ち、こう使います、指の腹をこんな風に使います、練り消しはここで使います、パンはこんなとき便利です(デッサンではパンを消しゴム代わりに使うのだ)。
僕がそんな初歩的なことを一つ一つ教わっている間に、他のやつらは初回の授業からいきなり滅茶苦茶上手いデッサンを描いてしまう。衝撃的ではあったけど、劣等感を感じるというより、気楽だった。最初から上手くなくて当然、みたいな、ちょっと姑息な心のゆとりもあったし、僕だって独学とは言え、それまでに何百枚というデッサンを描いてきたわけで、それなりに呑み込みも早かった。だから、一人だけまるっきり初心者として入校したはずの僕が、思いのほか早いうちにそこそこのデッサンを描き上げるようになると、先生たちは「家入、なかなかやるなあ」なんて褒めてくれたりして、僕は内心ちょっと得意になった。
ちょうどその頃、僕と、母さんと、予備校の先生で、入校後、初めての三者面談が行われた。
「家入君はどこの大学に行きたいの?」
高度急成長(自分史上)の真っ只中。ノリに乗っていた僕は、そんな先生の質問にきっぱりと、胸を張って回答。
「東京藝大です!」
僕の家には私大に行く余裕なんてないし、そうかと言って僕自身、大学に行ってまで新聞奨学生を続ける気持ちにもなれず、そうなると残された選択肢は学費の安い国立大。……で、至って自然な流れで、芸術を志すものにとっての最高峰、東京藝術大学を、僕もまた目指すことを決意したのだ。
新しい仕事、新しい学校、そして新しい目標。全てが、少しずつ変わろうとしていた。
……が、一つだけ、一向に変わらないものもあった。
「おい、クソ坊主、今何時だと思ってんだ、起きやがれコノヤロー!」
朝、たまに僕が寝坊すると、ドンドンドンドンッと部屋のドアを激しく叩く音がして、片岡さんの口汚い言葉がドア越しに響き渡る。配達員となって一ヶ月が経過しても、片岡さんは相変わらず僕のことを「クソ坊主」と呼ぶのだった。ところが、慣れとは恐ろしいもので、僕も次第に「クソ坊主」と声を掛けられても、何の気なく「はい」なんて返事してしまうようになる。ましてや気がつくと、そこにちょっとだけ親しみすら感じてしまっていたりする。
初めは絶対に深く関わらないほうがいいと思った片岡さんだったけど、一ヶ月も経つと、どうやら少なくとも悪い人じゃないらしい、ということは分かってきた。むしろ、
「クソ坊主、お前みたいにクソちっこいやつはなあ、ちゃんと飯を食えよ~飯を。じゃないとなあ、いつまでたってもちっこいまんまでなあ、大人の男になれんとぞ~」
なんて、いちいち憎まれ口を叩きながら、僕にご飯を取り分けてくれたりなんかして、片岡さんなりに、新人の僕を思いやってくれているのかなと思わされることもあった。そうするうちに、この人の頭の中は一体どうなっているんだ、という純粋な好奇心が、僕の中にふつふつと湧き上がり始め、僕は自然と、仕事以外でも、片岡さんと行動をともにするようになっていった。
「クソ坊主、ラーメン食いに行くぞ」
なんて片岡さんが言えば、朝の配達を終えた足で、二十四時間営業のラーメン屋を目指し長浜までバイクを飛ばす。とんかつ行くぞと言われれば、近所の上手いとんかつ屋まで歩く。
……そんな中で、気付いた。一定の距離を保って付き合いをしているうちは、この人は変人という仮面をかぶったまともな人なんじゃないかと思ったりもする。でも、次第に距離を詰めていくうちに分かる。この人は変人という仮面をかぶって、いない。これが素顔なのだ、ということが。
片岡さんはムキムキのマッチョだった。毎日のようにジムに通い、身体を鍛え、プロテインを飲んでいた。尋常でない太さに鍛えあげられた太もものせいで、極端なガニ股でなければ歩くことができなかった。家の冷蔵庫にはアーノルド・シュワルツェネッガーの写真がうっとうしいくらい何枚も貼り付けてあって、それが片岡さんの最終的に目指すところだった。首のびろんびろんに伸びた白いTシャツ、首から下げたタオルが片岡さんの曲げられない信念だった。天神へ行くにも、ジムへ行くにも、ラーメン屋に行くにも、デパートに行くにも、その装いが変わることはなかった(ただ極寒の冬場には綿入りのジャンパーが加わった)。ときどき家の中で、目に見えてはまずいものを見てしまうらしく、玄関や階段に「水結界」(コップに水を入れただけのもの)を張っていた。酒にはめっぽう弱く、ちょっとでも飲むと、もともと色白の肌がすぐに真っ赤になった。浮いた話一つなく、下ネタを極端に嫌がった。お父さんは、公務員だった。
信じがたいことに、そんな片岡さんの本業は、造形作家だった。片岡さんは、芸術家だったのだ。
百キロのバーベルをも優に持ち上げるそのゴツい手で、ことのほか繊細な仕事をする片岡さん。サイボーグがバイクで新聞配達をしている「地獄の新聞配達員」から、あくびする猫を象(かたど)った「あくびにゃんこ」まで。幅広い作風で、個展やグループ展を開けば必ずやってくるファンまでいたのだ。
片岡さんという人は、一言で言えば個性の塊みたいな人で、選ぶこと、好むもののほとんどが社会的にマイノリティだった。本人がそれに気付いてやっていたのかどうかは分からないけど、そんな片岡さんの姿は、当時の僕の目には余りにも鮮烈に映った。
友達をつくるために、社会でうまくやっていくために、みんなと同じ格好をして、みんなと同じ趣味を持って、トゲのない言葉を選んで話す……そういうことが、当然必要なんだろうと、それまでの僕は思っていた。それができるようにならなくちゃいけない、そう思って疑わなかった。
でも、ずば抜けて破天荒な片岡さんという人に出会って、こんな方法もありなのか、という衝撃が僕の中に走った。あんなにも破天荒な片岡さんの周りには、なんだかんだでたくさんの人が集まってくる。典型的な人気者とはほど遠い片岡さんのもとに、なぜか代わる代わる、誰かが会いにくるのだ。
今となって思えば、そんな片岡さんとの出会いは、その後の僕に大きな影響を与えたのだった。
二浪目突入
箱崎に住み始めて、半年ほどが経とうとしていた。
それまで、どんなバイトも長続きしなかった僕だったけど、新聞配達だけは不思議と続いていた。親切な所長さんと優しい奥さん、それに、よくよく知れば片岡さんに負けず劣らずの変人揃いの同僚たち。そんな環境は僕にとって、思いのほか居心地がよかった。
「まさかお前がこんなに続けられるとはなぁ」
たまに電話で話をすると、父さんはよくそう言った。けれど、一番そう思っていたのは、他ならぬ僕自身だった。
何しろ、休みは月に一日だけ。天候に効率を大きく左右される日々の仕事は決して楽じゃない。そこへきて、朝とも夜ともつかない微妙な時間帯での活動。特に僕が配達していた箱崎はいわゆる工業町で、埠頭(ふ とう)を中心に、工場や倉庫が海に面して無数に建ち並んでいた。増殖するアメーバみたいに、あちこちに触手(しょく しゅ)を突き出したようないびつな工場。黙々と白い煙を立ち上らせる高い煙突。信じられないくらい巨大な、球状のタンク。一見、外からは人の気配をまるで感じないそんな場所でも、中では多くの人々がせっせと働いているわけで、人がいる限り、新聞の需要は少なからずある。需要があるからには配達に行かなければならず……僕はしぶしぶ、そんな深夜の工場地帯に、連日バイクを飛ばして配達に向かっていた。
近づくにつれて、徐々に浮かび上がる馬鹿でかい工場の輪郭は、目を凝らして見ているうちに、あたかも生き物のように、今にもにょきにょき動き出すんじゃないかという気にさせられる。そこにまた、テレビみたいにどこからともなく、ぽわ~んと得体の知れない霧が立ち込め出したりなんかして、僕は毎日、これはただの霧やろうか、それとも死者の魂……なんてしょうもないことを考えては、ぶるぶるっと、得体の知れない肌寒さを感じつつ、ブイーンと、がむしゃらにバイクを飛ばすのであった。
実際、そんな負のオーラが、さらなる負のオーラを引き付けているのか、やっぱりそういう場所では喧嘩や殺人、そして自殺が後を立たない。仲間の配達員が、営業所へ戻ってくるなり、
「所長! 人が死んでます!」
なんてことも一度ならずあったし、僕自身もまた、配達に行ったら海で車がボーボー燃えているという生々しい現場に遭遇したりしたものだった。
僕たちはごく当たり前に朝を迎え、夜には眠りにつく。夜が終われば、また当たり前に目覚め、朝を迎える。ところが、そんな僕たちの知らないところで、当たり前に夜を終え、そのまま当たり前に朝を迎えることのできない人たちも、少数ではあるけれど、確実に存在している。酔っ払ったまま道端で行き倒れてしまう人。車ごと、家族で海に身を投じてしまう人。あるいは、誰かに無理やり、命を奪われてしまう人。
誰よりも夜更かしで、誰よりも早起きな新聞配達員は、奇しくもそんな人たちの停滞した時間を、真っ先に目撃する役目を担ってしまうのだった。
春が過ぎ、夏が終わった。
通っていた予備校も一気に受験モード一色になって、周りのみんなの目つきもあからさまに変わってきた。先生達の指導にも熱が入って、授業の時間も長くなった。勉強と、一日二回の配達とで、根が軟弱な僕は、肉体的にも精神的にもへとへとになっていた。でも、周りの雰囲気に後押しされる形で、何とか受験態勢を強化。東京藝大を目指すんだ! と改めて奮起していた。
が、その夢は、思わぬところで早々に散ったのだった。
「……はい、じゃあセンター試験の受験票を配ります。……山田……田中……佐藤。……で、家入のないんやけど?」
「え?」
予備校での出来事だった。一瞬頭の中が真っ白になって、それからよく考えて、思い出した。願書を出してね、出してね、と事務のお姉さんに再三言われていたにも関わらず、僕は結局、センター試験の願書をうっかり提出しそびれていたのだ。願書を提出していない以上、当然受験票もあるはずなく、東京藝大は国立なので、センター試験を受けられなくなってしまったからには、受験だって受けられない。そこへきて、経済的な理由から私大という選択肢がない僕は、世の皆さんより一足早く、この時点で二浪目突入を決めてしまったのだった。
配達と、絵に明け暮れたこの半年。雨の日や風の日の配達路。そして予備校での地道な製作、厳しい講評。数々の記憶が、瞬時に僕の頭を駆け巡り、あれらはいったい何だったんだ、と呆然となった。でも理由が理由なだけに泣くに泣けず、ただひたすら歯痒さをかみ締めた、十九の冬のことだった。
片岡さんと愉快な仲間たち
全国の新聞配達員が一年で最も忌み嫌う日、といえば間違いなく一月一日なのである。
初売りが何だ! 福袋が何だ! あの異常な量のチラシのせいで、新聞の厚みは通常の倍以上にも膨れ上がって、いくらパワーのあるスーパーカブでも、ついふらついてしまう。しかも例年、元日はなぜか雨や雪だったりすることが多くて、ツルツルの地面にあっと思った瞬間バイク転倒。新聞が散らばって、拾い上げようにもあまりの寒さに手が麻痺して思うように動かない。めでたさも何もあったもんじゃないのだ。
そんな元日配達という洗礼を受け、所長さんの家で振舞われた餅を食べて、年が明けた。箱崎宮という、福岡でも有名なお宮に、片岡さんと初詣にも行った。
あっという間に春が来て、再び予備校も始まった。一年目、一緒だった僕以外の三人は見事に全員がどこかしらの大学に合格、予備校を巣立っていって、残ったのは僕、ただ一人。新学期を迎えた教室には、新たに僕より年下の新卒組が何人もやってきて、雰囲気もがらっと変わった。
そんなわけで、前の年の同じ頃、同期の中でただ一人素人だった僕が、今となっては立場逆転。
そんな新しくやってきた後輩たちの中で、一人だけ、異彩を放っているやつがいた。浅野君というその彼は、見たままに描きなさい、と先生に言われて初めて油絵に取り組んだとき、何を思ったのか、人間を全身緑色で塗りたくったのだ。僕は自分の作業のかたわら、ちらっとそんな浅野君の絵を盗み見て、ぎょっとした。狙っているのかとも思ったけど、講評ではやっぱり先生から、
「こんなに緑じゃないやろ」
とツッこまれ、緑人間はボコボコに批評されてしまったのだった。
そんな浅野君はなぜか、入学当初から妙に僕に懐いていて、
「家入さん、何がいけないんですかねえ」
なんて、難しい顔して聞いてくる。そりゃ緑に塗らなけりゃいいじゃないかと思うんだけど、あんまり率直に言って傷つけてもいけないという思いもあって、
「どうしたらいいんやろうねえ……。例えば……例えばやけど、色をもう少し考えてみたらいいっちゃない」
なんてオブラートに包んだ言い方でやんわりアプローチ。すると浅野君は、
「……そうか、そうですね!」
と納得した様子だったので、僕も少しほっとした。が、そんな反省をふまえて臨んだ二枚目の油絵でも、やっぱり緑人間を描いてしまった浅野君。正直、素人目に見ても、可哀想だけど、駄目やろこれは、と思った。二浪目の僕に早くも後継者誕生、と確信した。……だからなのか、だからこんな僕に懐いてきたのか。本人も気付かないうちに、僕に自分と同じ匂いを感じて懐いていたんだな、と妙に納得したりした。
そんな浅野君はというと、現在、東京藝大大学院で絵を学ぶ、院生。人生というのは、芸術というのは、本当に分からないものなのだ。
あるとき、僕はいつものように片岡さんに連れられるがまま、天神、親不孝通りにある「屋根裏獏」という喫茶店にやってきていた。店に併設されているギャラリーで、片岡さんの友達の画家が個展を開いているというのだ。
カランカランと鈴の音のするドアを開けて、片岡さんの後ろから店内へ入ると、「あら片岡くん、いらっしゃい」とママさんが優しく出迎えてくれた。
立ち込めるコーヒーの匂い、湿ったジャズの音色。
店内に一歩足を踏み入れた途端、僕はふと、無性に懐かしさを覚えた。父さんと母さんの趣味で、かつて住んでいたあの狭い家の中ではよく、エラ・フィッツジェラルドやサラ・ヴォーンのレコードがかかっていた。そこに、いつも母さんがサイフォンで淹れるコーヒーの匂いが立ち上る。幼い頃、コーヒーは飲めなかったけど、香ばしい匂いだけは、好きだった。こんな風だったなあ、と漠然と思った。
「おっ、羽禰田(は ね だ)」
突然、片岡さんが口を開いた。視線の先には、カウンター席に座る一人の男の人。
「あぁ、片岡さん。どうもどうも」
静かに、落ち着いた口調でその人は言った。
シャープな顔立ちにかなり明るい茶髪、歳は多分、二十代前半。片岡さんとそう変わらないみたいだけど、少し大きめのスーツをノータイでルーズに着込んだ装い、そしてただ椅子に座っているだけで、ひしひしと漂ってくる圧倒的な存在感……。僕はとっさに、夜の中洲(なか す)のお兄さんだと思った。お姉さんを相手に素敵な夜を演出するお仕事の人だ、と。間違いない。でも、どうして片岡さんが、そんな人と知り合いに……? すると片岡さんが言った。
「おい、クソ坊主、こちらは羽禰田さん。お前なんか足元にも及ばん、えらーい画家さんたい。……で、羽禰田、こいつがクソクソ、クソ坊主。つーことでっ。なっ、クソ坊主!」
この人が偉い画家さん……。意表を突かれ困惑している僕をよそに、羽禰田さんが言った。
「……片岡さん、人に紹介するとにクソクソクソ坊主はなかろうもん」
声のトーンは極めて穏やか、なのに凄まじいまでの威圧感だった。とっさに僕が答えた。
「……あっ、いっ、家入です。片岡さんの、新聞配達の後輩で……」
「困った先輩やねえ」
眉をしかめ、笑いながら、羽禰田さんが僕に言った。
この日を境に、僕はちょくちょくこの店を訪れるようになり、同時に、この店の筋金入りの常連客、羽禰田さんとも、自然と親しくなっていった。後から分かったことによると、羽禰田さんは、九州の様々な絵画展で立て続けに賞をとっている、本当に「偉い画家さん」で、僕の読みに反し、夜の中洲とは全く無縁の人だった。
とても気さくな人で、羽禰田さんと僕は、会うたびに色んな話をした。芸術の話から、音楽の話、文学の話、他愛ないテレビの話まで、話題は毎回、様々。でも、そんな羽禰田さんが、僕にことあるごとに言う言葉があった。
「家入君は将来、絶対に社長になるよ」
当時、画家を目指していた僕にとっては、まるで絵に描いた餅のような話。面白い冗談だと聞き流していたけど、心のどこかで、本当に僕が社長になったら……。そんなことを、何となく思わなくもないのだった。
予備校も休みがちに
新学期が始まって二ヶ月が経とうとしていた。片岡さんにつれられて色んな個展に顔を出して、羽禰田さんをはじめたくさんの芸術家と出会うようになって、色んな話をして……。そうこうするうち、僕の中に少しずつ、学校で絵を学ぶ、ということに対して、違和感が芽生え始めていた。コツコツ積み重ねることは大切。技術を磨くことも必要だ。でも、毎日予備校という狭い空間の中で、ひたすらキャンバスに向かって描き続ける……それで、本当に僕が描きたい絵が描けるようになるんだろうか?
そんな葛藤あり、また二年目というダレもあり、僕はその頃から何となく、予備校を休みがちになっていったのだった。
一方で、足しげく通うようになったのは、図書館だった。それまで、芸術家といえば山田かまち、あとはピカソ、ゴッホ、ダ・ヴィンチくらいしか知らなかった僕が、片岡さんや羽禰田さんの影響で、横尾忠則を知って、村上隆を知った。
……物凄い衝撃だった。特に横尾忠則の絵を初めて目の当たりにしたとき、サイケデリックで、グロテスクで、露骨に下品な画風に、こんなの、ありなのか! と目からウロコの思いがした。シュールで、混沌とした世界観に、たちまち引き込まれた。もっと、色んな作品を見てみたい、そんな思いから、僕は図書館で、『デザインプレックス』や、『スタジオボイス』といったデザイン系の雑誌のバックナンバーを、あるだけ全部読み漁った。
その影響もあって、僕はそれから間もなく、コラージュという作業に没頭するようになった。コラージュとは、本や雑誌から写真を切り取って糊貼りする、絵画の技法の一つのことで、絵の中にぽんと異質なものを置くことで、違った雰囲気を作り出すことができる。当時僕は、『装苑(そう えん)』とか、『ハイファッション』とか、女性向けファッション誌から素材を選ぶことが多かったから、買いに行くときは毎回、ちょっとだけ恥ずかしかった。
そんな中で、あるときふと気付いた。……僕のやりたいことは、パソコンがあればもっと簡単にできるんじゃないか? と。でも、奨学生として、生活していくのもやっとだった当時の僕には、到底、パソコンを買うお金なんてなかった。もちろん、両親にも無心できない。でも、パソコンさえあれば、僕のやりたいことは確実にやれる。どうしよう……。
結局、僕は悩みに悩んだ末に、消費者金融から二十万ほど借り入れをして、中古のマックを購入。借金してるとこなんて知り合いに見られたらまずいという思いから、箱崎から電車で三十分ほど離れた福岡空港近く、糟屋(かす や)郡の無人契約機までバイクを飛ばした。
そうこうして、ついに念願のマックが僕の元にやってきた。立ち上げて、僕は仰天した。それはかつて、父さんが無理して買ってくれたものと同じパソコン、と一応、呼ばれてはいても、その実全く別のものと言ってよかった。鮮やかなモニター、凄まじい処理能力、そして、以前からは考えられない、膨大な容量。僕の部屋には電話回線がなかったこともあってインターネットはできなかったけど、それでも、切り貼りしなくても簡単に思い通りの絵が作れる、それだけで十分満足だった。
そんなわけで、僕に再び、パソコン漬けの日々が戻ってきたのだった。
やっぱり大学の壁は厚かった
こうして、後半はほとんど予備校に通わないまま、二度目の受験シーズンを迎えた。
「今度こそちゃんと願書、出しなさいよ。あんたが出さんならお母さんが出すから」
母さんから再三にわたって釘(くぎ)を刺されたこともあって、今度はちゃんと期限内に願書を提出。結果はともかく、無事にセンター試験も受けた。二度目の悪夢、元日配達も何とか終えて新しい年を迎えると、初めての藝大の受験日が、もうすぐそこに迫っていた。
しかし僕は受験に備えるでもなく、相変わらずパソコンでのデザインに明け暮れ、それに飽きるとただひたすら図書館に通い、本を読んでいた。デザイン系の雑誌はもう読んでいないものがなくなってしまっていたから、今度は小説を読んだ。村上龍、村上春樹、山田詠美、吉本ばなな……現代の作家モノをあるだけ読んでしまうと、今度は太宰や三島や坂口安吾……ちょっと時代を遡(さかのぼ)った。新聞配達、ご飯、パソコン、ご飯、読書、昼寝、パソコン、新聞配達、ご飯、就寝。当時の一日のサイクルは概(おおむ)ねこんな感じだったと思う。そんな風にして、ただやりたいことだけに明け暮れて、毎日が淡々と過ぎていった。
ときどき、公園のベンチに何時間も座って、ハトに餌をやりながら、ぼーっと考えた。
(これからどうしよう)
(大学に入ったら、どうしよう)
画家になりたいと思っていた。でも、気付けばいつの間にか、あのときほどの想いは、自分の中になくなってしまっていた。受験まで残りわずか。でも、そのときの僕にはよく分からなくなっていた。本当に、大学に行って勉強したいのか。本当に、そうしたほうがいいのか。どれだけ考えても、一向に答えが出ることはなかったのだった。
そうこうしながら、ついに受験のときを迎えた。
東京藝大油画科は受験する人数が多いため、一次試験のデッサンを両国国技館で行う。だから僕たち予備校生も、前日から全員一斉に上京、予備校がまとめて予約を取ってくれている両国駅近くのビジネスホテルに、揃って宿泊することになっていた。……が、僕はというと、やっぱり飛行機とホテルの予約申し込みを、予備校に出し忘れてしまっていたため、予備校の仲間とは、飛行機もホテルも別々という羽目に。
受験シーズンということもあってか、福岡発、羽田着の飛行機は満席続き。そんな中、やっとの思いで取れた夕方の便に乗り羽田へ、羽田から電車を乗り継いで、何とか両国(りょう ごく)までたどり着いたときには、もうすっかり辺りは暗くなっていた。
チェックインを済ませ、部屋に入る。荷物を降ろしてほっと一息ついたのもつかの間、途端にものすごい心細さに襲われた。
(予備校のみんなはどのホテルに泊まってるんだろう……。ここから近くなんだろうか、遠くなんだろうか……。今頃みんなで、ご飯でも食べよるんかな……)
確かホテルの名前くらいは聞いていたはずだったけど、そもそも自分のこともままならない僕が、人の宿泊するホテル名まで覚えていられるはずもなく、また当時、僕は携帯電話を持っていたけれど、誰の番号も知らなかった。
普段、ろくに学校に通いもしなかった僕。そんな僕と、真面目に頑張る後輩たちとの間には、日頃からかなりの温度差があった。本当なら学校にいる時間に、公園でハトに餌をやっているのを目撃されていたこともあった。そんなだから、予備校にたまに顔を出せば、何しに来たんだと白い目で見られたりもした。そもそも、予備校の友達なんて言ってもほとんどが顔を合わせればとりあえず挨拶を交わす程度の仲、ちゃんと喋ったことがあるのは緑人間の浅野君くらいだった。
……でも、それにしたって寂しかった。見知らぬ東京の、相撲の街でたった一人。気を紛らわすために、持ってきた小説を読もうとしても、一向に文字に集中できない。やりきれなくなった僕は、とにかく街へ出てみることにした。書を捨てよ、町へ出よう。寺山修司もそう言ってる。
夜の東京、両国の街を、行くあてもなく歩いた。ところ狭しとビルの立ち並ぶ駅前の一本道。タクシーやバスがひっきりなしに行き交って、あっちでもこっちでも人が歩いている。……東京に行けば親切な人がただで手相を見てくれる、そんなこと言ってたのは母さんだったっけ。もしそんなサービスが本当にあるなら、ぜひ今、僕のもとにやってきてほしいと思った。手相を見て、僕が明日の試験に受かるか受からないかを教えてほしい。そんな具体的なことが無理でも、未来が明るいか暗いか、それくらいでもいい。百歩譲って、綺麗な手ですね、とか言ってくれるだけでもいい。
が、そんな思いとは裏腹に、僕に声を掛けてくれる親切な人は一向に現れず、仕方なく、ばったり行き当たったマックでだらだらとハンバーガーを食べて、ばったり行き当たった本屋で読むでもなく本を立ち読み、ばったり行き当たったジーパン屋でジーパンを物色した。驚いたことに東京には、二十四時間営業のジーパン屋があるのだ。そんなに頑張って営業し続ける必要があるのかと思うけど、東京には星の数ほどもの人がいて、その中には少なからず、夜中や早朝に、急にどうしてもジーパンを買いたくなる衝動に駆られる人がいるんだろう。田舎からやって来た僕はそんなところに、大都会・東京をひしひしと感じ、せっかく上京したんだから、その恩恵に目一杯授かってやろうと妙に欲を出してしまった。で、結局ジーパン屋には日付が変わる、深夜十二時に及ぶまで入り浸り、それから帰る道に迷ったり何なりで、ホテルに戻ったときには午前一時を回っていた。
……次の日、というのはつまり藝大の受験当日。ベッドの中で目覚め、何気なく時計を見た僕は、絶句した。
午前、十一時。
センター試験だって受けたのに……。
東京まで来たのに……。
今年もまた、国技館に辿り着くことなく、僕の冬は終わったのだった。
次の章:第四章 起業前夜
目次
全文公開にあたって
プロローグ
第一章 貧乏な家に生まれて
第二章 「ひきこもり」だったあの頃
第三章 長いトンネル
第四章 起業前夜
第五章 ペパボ黎明期
第六章 成功、そして未来へ
エピローグ
新装版にあたって
解説 佐々木俊尚
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