こんな僕でも社長になれた - 第五章 ペパボ黎明期
起業を決意
十月下旬。
その日僕は、薬院の住宅街の中にひっそりと佇む小洒落た料理屋に、アキコさんを連れだした。
彼女の長く苦しいつわりはようやく落ち着いて、おなかも少しずつ目立ち始めていた頃だった。その店の名物は鶏料理で、入り口の暖簾には大きく「鳥すき」の文字。
「今日、これ食べよう」
僕が言うと、彼女は、
「おぉ、豪勢だねえ」
と言って目を輝かせた。
アルコールの飲めない僕と彼女は、コーラとオレンジジュースで乾杯をして、それからしばらく、他愛のない話を交わした。二十分ほどが経過し、ようやくメインの鳥すきが運ばれてきたのと同時に、僕はおもむろに切り出した。
「アキコさん、僕、今の会社、辞めようと思う」
彼女の、箸を動かす手が止まった。
「え」
それとなく彼女の顔色を伺いながら、僕は話を続けた。
「今の会社を辞めて、自分で会社を立ち上げようと思う」
「……何の会社?」
「……レンタルサーバー」
当時、彼女は自分でもホームページを持っていたから、レンタルサーバーについて最低限の知識は持っていた。ホームページを作ったり、ネット上にデータを保存したりするためのスペース、サーバー。それをユーザーに月単位、年単位で貸し出すのが、レンタルサーバー屋だ。
彼女の妊娠が判明して以来、僕は真剣に考えた。彼女や、生まれてくる子供との時間を犠牲にすることなく、十分に食べていけるだけのお金を稼ぐ、そんな方法はないだろうか。考えに、考えた結果、思いついたのがこのレンタルサーバー業だった。第一に、これなら家で仕事ができる。僕がそれまで培ってきたプログラムの技術だって、活かすことができる。ましてやあの片岡さんだってホームページを持つ時代、需要なら確実にある。
と同時に僕には、ある一つの思いもあった。
「……今あるレンタルサーバーはほとんど全部、男向けの、味も素っ気もないサブドメインばっかりやろ? でも、これからはアキコさんみたいに、若い女の子たちが、どんどんホームページを作るようになると思う。だから、もっと女の子が使いたくなるような……ナウでヤングな、レンタルサーバーを始めたら、絶対にいけると思うんだ」
ナウでヤングな、そう言った瞬間、アキコさんは露骨に眉間に皺を寄せ、怪訝な表情を浮かべた。そしてしばらく黙ってから、ゆっくりと、口を開いた。
「……もうすぐ、赤ちゃんが生まれるんよ」
「……うん……だから、今やりたいんだ」
子供の誕生の瞬間、過ぎていく一日一日を、一番近くで見ていたい。そのためにも、今やるしかない……改めて文字にすると相当にクサイそんなことを、僕はただ、懸命に彼女に伝えた。
一通り僕の話を聞くと、彼女は言った。
「……分かった。じゃあ、頑張ろう」
次の日からさっそく、起業への準備を始めた。
……と言っても、そもそも僕の目的は会社を起こすことではなく、レンタルサーバー業を営むこと。わざわざ会社組織にしなくても良かったのだ。ところが、業者と契約するのに、どうしても法人じゃなくてはならないと言われて、それで、やむを得ず会社を作ることになった。
参ったなあと、僕は思った。なぜならその当時、有限会社を作るには三百万、株式会社に至っては一千万円もの資本金が必要だったのだ。今からお金を稼ごうとしている僕が、まさかそんな大金を持っているはずもなく、その敷居はあまりにも高すぎた。そこで色々と調べた末に、僕は合資会社という方法を選択した。当時、合資会社は唯一、資本金が一円からでも、立ち上げることができたのだ。
とはいえ、本当に資本金が一円だと、当然のことながら他社と取引するうえでも、あんまり信用してもらえない。そこで僕は、業者に支払うサーバー代として用意していたなけなしの貯金、三十万円を資本金とすることにした。
「会社名、何がいいと思う?」
ふと、何気なくアキコさんに相談すると、彼女はしばらく考えてこう答えた。
「……マダメ企画」
思わず僕はギョッとした。
「えっ、なんでマダメ……そして企画……」
彼女の説明はこうだった。
当時、「マダムAを捜せ」というタイトルのギャグサイトを二人で運営していた僕と彼女。せっかくならそこから取って、「マダムエ」→「マダムェ」→「マダメ」……ということで、マダメ企画にしてはどうだろう、と言うのだ。あえて「企画」にしたのには特に理由があったわけでなく、単に彼女の思いつきのようだった。
僕は、彼女の話に一通り耳を傾けた後、つとめて穏やかな口調で、やんわりと提案した。
「……他に、いい案はないかな」
すると彼女、
「ないやろね」
「……そうだよね」
印鑑を作り、必要な書類を一通り揃えると、法務局に登記申請。面倒な作業もいくつかあったものの、振り返ってみればこんなんでいいのか、というくらい、あっけなく手続き完了。
そんなこんなでついに、合資会社マダメ企画が誕生したのだった。
ロリポップ!の誕生
同じ頃、僕たちは薬院のマンションを出て、アキコさんの実家へと移り住んだ。二人で話し合った結果、初めての出産、育児に備えて、そのほうが安心と考え、彼女の両親もそれに快く同意してくれたのだ。
それに合わせて、僕は勤めていた会社を辞めた。レンタルサーバー屋の立ち上げに専念するためだ。業者との契約、サーバーの設定、容量、料金、規約の設定、そしてウェブサイト作成……。いざ着手してみると、開業に向けてやるべきこと、決めるべきことは山のようにあった。予期せぬトラブルに、作業が立ち往生することも度々あった。それをそのつど、本やインターネットで調べながら、一つずつクリアしていく。気の長い作業だった。
一方で、いくら家賃のかからない彼女の実家住まいとは言え、最低限の生活費は稼がなくちゃいけないから、個人的にホームページ作成やシステム開発を請け負って、在宅での仕事は続けていた。そのせいで結果的には、会社勤めをしていた頃より、僕の一日の仕事量は大幅に増えて、ろくに寝る間もなかった。請け負った仕事の納期に追われる一方で、立ち上げの準備に奔走する。そんな中で、自分でも気付かないストレスは、デリケートな僕のお肌をも直撃。入浴後、放っておけば顔全体が白く粉をふくほどバリバリに乾燥し、そのままで喋ったり、笑ったりしようものなら皮膚が切れて、血が滲(にじ)んでしまうのだ。だから僕は、めまぐるしい仕事の合間を縫っては、アキコさんの化粧水で保湿にも勤しんだ。仕事・準備・保湿。準備・仕事・保湿。保湿・保湿・保湿……そんな毎日。
でも、そうかといって、立ち上げを先延ばしにすることはできなかった。早く形にしたいという僕自身の強い思いもあったし、何より、もうすぐ子供が生まれるという現実をふまえたとき、少しでも前に進めなくちゃいけないと思った。悠長に構えている余裕なんてなかったのだ。
そんなある日、ようやく、サーバー屋のウェブサイトが完成した。ユーザーの、借りるか借りないかという意思を大きく左右する表の顔、ウェブサイト。いくらサービスの内容が充実していたとしても、ここがダメならお客は到底集まらない。そういう意味でも、僕自身、なかなか満足のいくサイトに仕上がったと自負していた。これならいける、そんな手ごたえもひしひしと感じていた。これでウケないわけがない、と。……とはいえ、ターゲットは若い世代の女の子。よりリアルな声を聞くべく、僕はさっそく、アキコさんにでき上がったサイトを見せてみた。
「これ、どうかな?」
いいに決まってるけどネ、と僕は密かに心の中で付け足した。
ところが、彼女の反応は、意外なものだった。
「……」
モニターを覗き込むなり無言になってしまった嫁。僕は慌てて、しどろもどろに説明を加えた。
「あの……『塩鯖(しお さば)サーバー』って言うんだけど……えっと、鯖とサーバーをかけてるの、分かるよね……ネーミングも面白いから女の子にうけるかなって思って。あと、この、波の上で飛び跳ねてる鯖のイラスト、僕が書いたんだけど……可愛いやろ? ポップかなって思って……女の子にうけそうかなって思って……駄目?」
「……本当に、そう思うん?」
本当にそう思っているのか。塩鯖とサーバーをかければ面白いと、飛び跳ねる鯖がポップだと、本気で、心の底からそう思っているのか。落ち着いた口調で淡々と問う彼女。その目つきは刺すように鋭く、他人を見るかのように冷たく、僕は背筋の凍る思いがした。
「駄目……だ……ね」
結局、公開に先立って、ネーミングから全部リニューアルとなった、悲しき塩鯖サーバー。女の子にうけるものを見極めるのは、本当に難しい。……難しいけれど、難しい中にも一つだけ分かったことは、鯖はポップになり得ない、ということだった。じゃあ一体、女の子の好むポップとはどんなものなのか。何がポップなのか。振り出しに戻された僕は、必死になって考えた。考えに考え、悩みに悩み……その数日後。
……これでどうだ!
僕は再び、アキコさんに挑戦状を叩き付けたのだった。
「……ナウでヤングなレンタルサーバー、ロリポップ!……?」
「うん。ネーミングも、メインキャラクターも、新しくしてみたんだ」
「……この妙にリアルなヒゲのおじさんは何?」
「鯖に代わるメインキャラクター、ロリポおじさんだよ」
「……」
相変わらず不審なものを見るいぶかしい目つきで、モニターを覗き込む嫁。それでも、前回と今回とでは、その表情にほんの少し変化があったのを、僕は見逃さなかった!
「今度こそ、ポップやろ?」
表面上は疑問形で、しかし裏には、これこそがポップに違いない、という強い信念をもって、僕はアキコさんに尋ねた。
「……確かに、ポップだ(ロリポップだし)」
こうして、ナウでヤングなレンタルサーバー、ロリポップ!の骨組みが、完成したのだった。
動き出したロリポップ!
最近、街ではトランクルームの看板をよく見かけるようになった。クローゼットに入りきらない季節はずれの衣類や、クリスマスツリー、雛人形など、年中使わないもの、家の中に収まりきらない荷物を保管するための、いわゆる個人向けの貸し倉庫。
レンタルサーバーは、このトランクルームととても良く似ている。つまり、パソコンの中にあるデータを、パソコンの外に保管するためのスペースだ。
トランクルームは、土地なり、マンションの一室なりを借りてきて、そこにコンテナを置いたり、仕切りを立てたりして、個人に小貸しする。同様に、レンタルサーバーもまた、サーバー屋が大きなサーバーを一台借りてきて、それを小分けにし、個人のユーザーに貸し出すのだ。
ただ、二つの大きな違いは、レンタルサーバーの場合、サーバーの中に保管したファイルを、他人に見せることができるという点にある。たとえば自分の日記や、撮りためた写真など、誰かに見てもらいたいものに関して、ホームページという形で展示することができるのだ。言うならばトランクルームを、貸しギャラリーとして使う感覚で、サーバーの場合、そのギャラリーの住所となるのがURL、つまりホームページアドレスだ。
僕がロリポップ!を始めた頃、ネット上にはすでにたくさんの個人向けレンタルサーバーが存在していた。企業が大規模にやっているところもあれば、個人が副業として、お小遣い稼ぎ程度に細々と営んでいるものまで様々。でも、その中で一貫していえたことは、どのレンタルサーバーも、ユーザーに向けた門戸(もん こ)が極めて狭い、ということだった。サイトのデザインから、利用方法に至るまで、ほとんどがインターネットにどっぷり浸かった、どちらかと言えばちょっとオタク寄りの成人男性向け。特にURLの一部として表示されるサブドメインなんて、駄洒落とか、語呂合わせとか、とにかく押しなべてダサイものばかりだった(塩鯖サーバーの僕が言うのも何だけど)。
だけど、インターネットの普及とともに、ウェブ上には急速に若い女性ユーザーが増え始めていた。そして、他でもない僕の奥さんをはじめとして、そういった若い女性たちの多くは、自分の声をネット上で発信することに、とても積極的だった。お洒落をするのと同じ感覚で、ホームページのデザインにもこだわりを持つ人が増えていた。
そんな中で、自分のホームページはここです、と誰かに伝えるとき、必ずなくてはならない、URLが、いつまでもダサくていいはずがなかった。それで僕は、ロリポップ!を始めるにあたって、特に若い女性向けに、可愛いサブドメインを初めから何種類も用意した。可愛いだけじゃなく、ユーザーの好みに応じて、選べるようにしたのだ。
一方で、ロリポップ!のサービスを若い女性向けに開始するには、サイトのデザインやサブドメインと同時に、料金設定もまた重要だった。当時の個人向けレンタルサーバーは、安くても月額千円がいいところ。だけど、それじゃとても若い女の子たちには手が出ない。化粧品に千円払えても、サーバー代に月々千円も払う女の子なんてそうはいない……し、個人的にもあんまりいてほしくない気がする。もっと手頃に、どうせなら、学生のお小遣いの中からでもまかなえるくらいの料金にしたかった。
僕は、慣れない電卓を持ち出しては、何度も何度も試算を重ねた。月額いくらにするか。いくらにすれば、採算が合うのか。いくらにすれば儲けが出るのか。いや……そもそもそんなにお客さんは集まるんだろうか。お客さんも集まらないのに、採算ラインなんてセコいこと考えていたってしょうがないんじゃないだろうか。ましてや儲けなんて、本当に出るんだろうか……。
葛藤の末、僕が導き出した答えはというと、レンタル料月額二百五十円という、当時の業界最安値の価格設定だった。これなら、学生だってお小遣いからでも気軽に借りられて、なおかつ他社も、簡単には真似できない。
(確実にいける)
そう、確信をもってはじき出した料金だった。けれども、一方で、初めてこのことをアキコさんに打ち明けたとき、彼女は猛烈に反対した。
「今まで長い間やってきた会社が千円で売ってきたものを、二百五十円なんかにして、本当にやっていけると?」
彼女がそう思うのも無理はなかった。確かに、よそと比べれば開業直後からいきなり投げ売りみたいな値段だ。だけど僕の計算では、一台のサーバーに割り当てるユーザー数を極端に多くしたり、初期設定料としてバカ高い金額を取ったり、そんな小細工をすることなく、どうやら採算が取れるらしいのだ。
「大丈夫。絶対、大丈夫。何回も計算したけど、これでいけるよ」
僕は断固として彼女に言った。何よりこの価格なら、お客さんは間違いなく大勢集まる。僕には、そんな確信があった。
父になる
そうこうして迎えた、二〇〇一年十一月、ロリポップ!は満を辞してオープンした。
サービス開始に先駆けて、僕は、学生の多く集まるコミュニティサイトや、ホームページ作成の素材サイトなど、ターゲットとしている若い女性の集まりそうなサイトをいくつか選び出し、広告掲載を依頼していた。できて間もないレンタルサーバー、何をおいても取り組むべきことは、知名度を上げることだった。いくら華々しくオープンしても、サイトを誰も見にきてくれなければ意味がないのだ。
そしてもう一つ、女性向けに特化していることを明確に示すためにも、ロリポップ!では、女性の申し込みに限って、通常三千円の初期設定料を、半額の千五百円に割り引くことにした。これについて、やっぱりアキコさんは当初、そこまでせんでいいって、と断固、猛反発。何しろ僕たちと、そして生まれてくる子供との生活がかかっているわけで、彼女がそう言うのも当然だった。
だけど、やっぱり、どうしてもゆずれなかった。家族の生活がかかっているからこそ、念には念を。ここまでやってユーザーが集まらないはずがないと、僕自身が納得できる、万全の条件を整えたかった。
そんな中で、ついに動き出したナウでヤングなレンタルサーバー、ロリポップ!。
蓋を開けてみれば僕の目論見(もく ろ み)は的中。出だしは、意外なほど好調だった。オープンして間もなくから、真新しいレンタルサーバーに、日を追うごとにユーザーが一人、また一人と集まって、結果として最初の月から、少ないながらも利益を出すことができたのだった。
……何とかやっていけそうだ。
そんなかすかな希望が見え始めた、二〇〇二年、三月。プライベートでも、僕に大きな変化が起きた。僕はついに、父親になったのだ。
アキコさんが、側で見守る僕の腕をバシバシと殴りながら長い陣痛に耐え、ようやく生まれた我が家の第一子は、男児。何だか宇宙人みたいな顔をしてるなあと思ったら、見舞いに来る人来る人、「お父さん似やねえ」と言った(どういう意味だ)。ほとんど見えてないというけれど、切れ長の両目を開いて、病室の中をじっと観察している様子は、どこか神秘的で、生命のエネルギーに満ちていた。
二人が入院中は僕も毎晩、病室に寝泊りしていた。初めての育児、そんな僕たちの不安が伝わるのか、息子は生まれた翌日から数日間、夜な夜な声を枯らして泣き続けた。嫁は息子を抱えて、授乳室と病室とを一晩のうちに何度も右往左往、合間に繰り返しおむつをチェックするんだけど、おしっこもウンチもしていない。なのに、一向に泣き止まない息子。そんな息子を抱いたまま、ついには自分まで泣き出してしまう、アキコさん。
途中、様子を見に来てくれた看護婦さんが、僕たちに教えてくれた。
「赤ちゃんは産道を通るとき、とっても怖い思いをしてきてるんですよ。夜に泣くのは、暗闇でそのことを思い出して、不安になるからって言われているんです」
出産後間もないアキコさんの体調も考えて、一晩、赤ちゃんを新生児室で預かりましょうか、と看護婦さんは僕たちに提案してくれた。でも彼女は、大丈夫です、と言ってそれを断った。十ヶ月という時間を経て、ようやく僕たちの腕の中にやってきた赤ん坊。狭く暗い、怖い道を通って、僕たちのもとにやってきてくれた我が子。
自分たちの手で安心させてやりたい。寂しい思いをさせたくない。そんなことを、アキコさんが言って、僕も頷いた。
腕の中で眠りかけながら、うっく、うっくと寝言のようなか細い声を発する息子。
(頑張らんといけん……)
僕は改めてそう思うのだった。
一方で、その間にも、ロリポップ!のサーバーを使いたいと申し込みをして、今か今かと設定を待ってくれているお客さんたちが大勢いた。出産のどたばたで仕事がおろそかになっていたぶん、お客さんから、設定はまだかという苦情のメールが、日に日に僕のもとに届くようになった。だからと言って、実はこのたび、嫁が出産しまして……なんて言い訳が通用するはずもなく、いくらこんな僕だってさすがにそれは分かっていたから、看護婦さんに許可をもらって、病室にパソコンを持ち込むと、携帯電話でネットに繋いで、夜な夜な仕事に励んだ。
初めの頃、一日に一、二件ほどだった申し込みも、息子が産まれ、一ヶ月ほど経った頃には、日に十件、二十件と、すごい勢いで増えていった。安くて、可愛いサブドメインが選べる。こんな好条件で、ユーザーに選ばれないはずがないと、自信を持ってサービスを開始した当の僕も、まさかこんなに早い段階で反響が返ってくるとは思いもよらず、嬉しい反面、実は困った事態に陥っていた。日に日に増える申し込みを、僕一人では到底、処理出来なくなってきたのだ。
個人情報のデータベース化や、サーバーの設定、設定完了のメールの送信。今でこそ全て自動化されているこれらの工程も、当時は全部、僕が手動でやっていたから、一件の申し込みを処理するのにひどく時間がかかっていた。自動で入力してくれるシステムを、作ろうと思えば作れないことはなかったけれど、当時はそんな時間もなかったのだ。
同時に、ユーザーのサポートもまた、申し込み処理と同様に、とても重要な仕事だった。レンタルサーバーを借りたものの、そこでどうホームページを設置すればいいのか分からない。ファイルの転送がうまくいかない。ホームページが表示されない……。十人十色の質問に、一通一通、返事を返す。当然、相手は「お客様」なわけで、メールの内容とあわせて、言葉の使い方一つ一つにまで、入念に注意を払う必要がある。
申し込みの処理に追われればメールサポートがおろそかになる。サポートに専念すれば申し込みの処理がおろそかになる。どちらも、おろそかになればなるほど、ユーザーからクレームのメールが届いて、今度はクレームの対処に追われる……。
「サポートにメールを送っても全然返事が来ません! 一体どうなってるんですか!」
「申し込みを取り消したいので、お金を返してください!」
日増しに増え続けるユーザーからの、辛らつな怒りの声に、すみません、申し訳ございませんと平謝りに謝り続ける。そんな、地獄のような毎日だった。
「2ちゃんねる」でのバッシング
長男も誕生し、始めたばかりのレンタルサーバーも大人気。
本当なら幸せの絶頂にいるはずの僕はというと……完全に、精神的な余裕を失っていた。アキコさんの実家、二階の仕事部屋にほぼ一日中こもりきり、ひたすらメール処理に追われる毎日。家族と過ごす時間を確保するために始めた仕事なのに、ふと気が付くと、今までで最も過酷に、仕事に追われている。そんな現状にジレンマを感じながらも、乗り出した船は止めることができない。そんな僕を気遣ってか、アキコさんがしばしば「面白いテレビやってるよ」、「ご飯できたよ」と声を掛けにきてくれた。けれどもそんな彼女にすら、今忙しいけん、後で行く、とそっけない返事を返すばかりだった。
いつからか、そんな僕を見かねて、出産後間もないアキコさんも、仕事を手伝ってくれるようになっていた。申し込みメールに記された個人情報を一つ一つ、データベースにコピー&ペーストしていくという作業。まだ首も据わらない息子を、膝の上に抱えながら仕事に励むアキコさんの姿に、僕はたまらない不甲斐なさを感じた。
そんなある日。茶の間のテーブルを挟んで、僕の向かいで作業していた嫁の手が、ぴたっと止まった。何気なく彼女のほうに目をやると、アキコさんが青い顔をして、震えながらモニターに見入っている。
「……どうしたん?」
思わず僕が声をかけると、彼女がモニターを指差しながら、呟いた。
「……これ……なん?」
「あっ」
彼女のパソコンを覗き込んで、しまった、と思った。
そこには、あの巨大掲示板2チャンネルの、「レン鯖板」と呼ばれる掲示板が表示されていて、ロリポップ!のことや僕のこと、そして当時、会社概要に有限責任者として名を連ねていた、アキコさんのことまでもが、あることないこと、口汚く書き込まれていたのだった。
僕自身は、その掲示板の存在のことを、前から知っていた。最初見たときは確かにショックだったけど、そのうちに、いちいち落ち込んでいてもしょうがない、色々言われるのは、注目されている証拠なんだと思うようにしていた。
だけど、彼女がそこを見てしまうのは、まるっきり予定外の出来事だった。
「……なんでこんなの見よるん、見らんでいいよ」
僕はとっさにウィンドウを閉じた。だけど、時すでに遅し。
「こんなふうに書かれとるの、知っとったん……?」
彼女は力なく僕に尋ねた。
「……うん」
「……私、全然知らんやった」
当時からロリポップ!の申し込みフォームには、一番最後に「どのようにしてロリポップ!をお知りになりましたか?」という簡単なアンケートを設けていた。そこで、あるユーザーがご丁寧にも、2ちゃんねるのこのスレッドのURLを明記してくれていたらしいのだ。
〈家入一真・サギ師〉
〈夜逃げ直前〉
〈ロリポップ、破産〉
一部は明らかに、同業者の心無い中傷だった。でも中には、申し込みしても返事がないというユーザーの怒りの声や、サポートが悪いというクレームの声が、辛(しん)らつに並べ立てられていた。根も葉もないただの中傷なら、どんなことを言われても僕は平気だった。でも、ロリポップ!に興味を持って、期待してくれたユーザーの失望の声だけは、ナイフの様に、僕の胸に突き刺さった。そして、ついにそれをアキコさんが見てしまったということ。彼女の気持ちを思うと、やりきれなかった。
それから、数日後のことだった。アキコさんが血相を変えて、僕の仕事部屋に飛び込んできたのだ。
「警察に……警察に電話せんと……!」
アキコさんの言葉にぎょっとしつつ、取り乱す彼女を制しながら聞いた。
「どうしたん。何があったと?」
すると彼女はおもむろに僕のパソコンで、あるユーザーのサイトを開いた。そこには、ロリポップ!の対応の悪さに対する不満が淡々と語られていて、最後の最後に、半ば冗談めいた口調で、「家入の事務所にトカレフ持って押し入ってやろうか……」と、書かれていたのだ。
「警察に電話しよう……」
「……こんなの嘘に決まっとるやろ、本気にせんでいいよ」
僕は何とか、気が動転しているアキコさんを落ち着かせようとそう言い聞かせたものの、彼女はついに、涙ながらに、僕にこう訴えたのだった。
「……もうこんな仕事やめてよ。……また、前みたいに、サラリーマンに戻ったらいいやろ。こんな思いしてまで……こんなこと書かれてまで、続ける意味なんてないやろ……?」
母になったばかりの彼女もまた、僕と同じように、家族を守ろうと必死なのだった。そのことが分かるだけに、彼女の言葉に、僕は、すぐに返事を返すことができなかった。
(こんな思いをしてまで、続ける意味はあるんだろうか。家族にこんな思いをさせてまで、続ける意味があるんだろうか……)
だけど現実には、その時点ですでに二百人を越えるユーザーを抱えていて、とてもじゃないけど、やめます、なんて言える状況じゃなかった。同時に、僕の中にも「まだここでひけない、ひきたくない」という、強い思いがあって、ロリポップ!はもう駄目だろう、家入一真は夜逃げだ、なんて言いたい放題言われていても、絶対にこのまま終わりたくない、見返してやりたい、という強い気持ちが自分の中でどんどん高まってくる。
ある意味でそれは、人生で初めての大勝負に挑む、僕自身の意地でもあったのだ。
社員第一号、入社
息子が生後六ヶ月を過ぎると、ようやく僕もアキコさんも、少しは子育てが板に付くようになってきた。そこで、僕たちはアキコさんの実家から車で三十分ほどの街、久留米(く る め)市に引越しをした。
新居は、九州自動車道久留米インターを出てすぐの、バイパス沿いにある3LDKの賃貸アパート。エレベーターなしの二階、駐車場一台つきで家賃は月六万円という破格だった。それもそのはず。大型ショッピングセンターやシネコン、レストランなどが次々と立ち並び、今でこそ多くの人々で賑わうようになったこの辺りも、当時はただ、筑後川(ちく ご がわ)沿いにだだっ広い空き地が延々と続く、なんにもない田舎町だったのだ。駅も遠い、スーパーにも車でしか行けない。そんなとこに、なんであえて引っ越したかというと、何となく川辺を散歩したいと思ったから。今思えば、当時の僕は本当に疲れきっていたのだった。
引っ越して間もなく、僕は懐かしい人と再会することになった。前の会社の同僚、持永君が、久留米の家を訪ねてきたのだ。
「久しぶり。元気しとん?」
「元気、元気。持永君は? 会社の人たちは、変わりないん?」
「うんうん、全然変わらっとらんばい」
友人と久々に交わす他愛ない会話、僕は久しぶりに、肩の力が抜けるのを感じた。
「家入君、会社やりよるんやって? 順調なん?」
「うん、まあまあってとこ」
ユーザーは順調に増えるものの人手が足りず……そんなことを言いかけて、僕はふと思った。持永君が会社に入ってくれれば、開発もデザインも安心して任せられる……。
その頃、成長とともに目が離せなくなってきた息子のこともあって、アキコさんは徐々に仕事から遠ざかっていた。その代わりに、派遣スタッフを一人雇っていて、メールサポートや申し込み処理など、事務的な作業に関しては、僕とその人と二人でフル稼働して、何とかこなしていけるようになってきた。
ただそのせいで、システム開発や、新規サービス立ち上げの着手は、全部後回しになっていたのだ。だからといって、それを任せられるプログラマーを雇おうにも、田舎ではそう簡単に人材が集まらない。
(だからこそ、持永君が会社に来てくれれば……)
でも、持永君は僕のかつての同僚。僕が辞めた会社で、今もなお働いているわけで、うちにおいでよ、なんて僕から切り出すのはどうしてもためらわれた。
するとそのとき、持永君がおもむろに言った。
「実は俺さ、今度、会社辞めようと思っとるん」
「えっ。で……次の仕事は?」
「これから探そうと思っとる」
「じゃあ、うちにきたらいいやん! 今ちょうどプログラマー探しよるん!」
「ああ、そうなん? じゃあ、そうしよっかな」
「……え、本当にいいん?」
「うん」
そんなわけで思いがけずお互いの利害が一致。とんとん拍子で話がまとまって、約一ヵ月後から、持永君は技術スタッフとして入社したのだった。
それから数ヶ月、一時はどうなることかと思われた業務も、少しずつ順調に滑り出した。問い合わせやクレームのメールには、僕と派遣スタッフとで、地道に一つ一つ返事を返した。持永君が開発したシステムで、毎日、処理に追われていた申し込みメールにも、ある程度、自動で対応できるようになった。当初、一台だったサーバーも、ユーザーが増えるのとともに一台、また一台と増設を重ねていった。
ロリポップ!のサービスを開始して、十ヶ月余り。その頃になって、僕はようやく、レンタルサーバーという仕事の、本当の面白さを感じられるようになっていた。
会社として提供するサービスを、たくさんの個人ユーザーに使ってもらう。そんな関係の中で、ユーザーの声は時として痛いほどに辛らつだ。でも、僕たちが一生懸命に努力して、期待に応えられたとき、ユーザーはそれを素直に喜んでくれる。ありがとう、嬉しいです、そんな温かい言葉をかけてくれる。
それまで、広告デザインの下請けや、システム開発の下請けなど、直接にはユーザーの顔の見えない仕事にずっと従事してきた僕にとって、それは初めて感じる、新鮮な刺激だった。
アフィリエイトの導入
ナウでヤングなレンタルサーバー、ロリポップ!がサービスを開始してから、一年あまり。少し遅い気もするけど、その頃になってようやく、他社の中にもロリポップ!と同程度に価格を落としたり、女性に特化したサービスを打ち出したりする会社が現れ始めた。幸い、それでもロリポップ!の申し込み者数はまだまだ右肩上がりを保っていたものの、僕は、何か手を打たなくちゃいけないと考えた。
そこで開始したのが、怒涛(ど とう)の初期設定料、半額制だ。
内容はいたって単純明快。「初期設定料、女性は半額」というそれまでのシステムに加えて、学生も半額、ついでによそのサーバーから乗り換えてロリポップ!に申し込んでくれたありがたいユーザーも半額にしてしまおう、というものだ。当然、学生なら男子だって半額。よそのサーバーから乗り換えてきてくれるユーザーなら、おじちゃんも、おじいちゃんも半額だ。
ちなみにこれを決めるにあたっても、僕は当然のように、アキコさんの反対を予測していた。半額にし過ぎやろっ、と絶対に突っ込まれる、そうに違いないと考えていた。でもその頃になるともはや、嫁という高いハードルを何とか突破することに、心のどこかで意欲的になっている自分がいた。反対されるからこそ、絶対にやってやろうという反骨精神。
(反対するがいい、嫁。それもこれも、僕には全部お見通しなのだから……)
そんな十分過ぎる気合でもっていよいよ迎えた重大発表当日。アキコさんの反応はというと……思いがけずいたって冷静、かつシンプルなものだった。
「へえ。いいんじゃない」
(へ……?)
僕が拍子抜けしていると、彼女がにやっと笑って、言った。
「私が反対すると思ったんやろ。わっはっはー」
裏の裏をかかれていたっ!
嫁にはかなわないのだった。
一方でその頃、料金制度の改正とともに、ロリポップ!は新しいシステムを導入した。一般に、アフィリエイト・プログラムと呼ばれているそれは、まず、個人のホームページに、ロリポップ!へのバナー広告を貼ってもらう。そして、誰かが、その広告を経由してロリポップ!のサイトへ飛べば、一度につき二円の報酬が支払われ、なおかつ、そこから新規申し込みがあった場合には、契約内容に応じた料金の半額が、バナー広告を貼ったサイトの管理人に支払われる。そんなシステムなのだ。
バーチャルな空間が無限に広がる、インターネットの世界。その中で、よりたくさんの人にロリポップ!を知ってもらうためには、道端に看板を立てるように、人目のつくところに、より多く広告を出さなくてはいけない。けれども、そのために僕たち企業から広告掲載を依頼するのは、もっぱら何千、何万という大きなアクセス数のある、超有名サイトばかりだ。
一方で、せっかくホームページを開設したんだから、何とかお小遣い稼ぎにつなげたいと思っている個人のサイト管理者も、ネット上にはたくさんいる。そんなサイト管理者と、知名度を上げたいと願う企業との利害を一致させた、みんながハッピーなシステムこそ、このアフィリエイト・プログラムなのだ。
当時から、アフィリエイトを導入しているサーバー屋は少なからず存在していた。けれども、多くの企業の場合、成功報酬の支払率を三~五パーセント程度に設定していたのに対し、ロリポップ!では、なんと半額の五十パーセントとしたのだ。当然それによって、契約者一人当たりから会社が得る収入は半分になってしまう。けれども、ここまで高額に設定したことによって、ロリポップ!の広告バナーは、ネット上のいたるところで目にされるようになった。しかも、そこからのサービス申し込みは、自分自身の収入にも直結するわけで、各サイト管理者が、工夫を凝らした宣伝文句で、ロリポップ!を宣伝してくれるのだ。
そもそも、ロリポップ!で行っていた任意のアンケートによれば、新規申し込みユーザーの、実に半分以上が、友人、知人からの紹介によって、ロリポップ!を知ってくれていたことが分かった。僕たちの知らないところで、ロリポップ!を友達に紹介してくれている、神様のようなユーザーがいる。そのことが何より嬉しかった。学校の教室で、通学途中の電車の中で、
「オススメのレンタルサーバーがあるよ」
「月額二百五十円で二百メガだし、可愛いサブドメインが選べるよ」
なんて会話を、今日もどこかで若い女性たちが交わしてくれているのかと思うと、(少し複雑な反面)こんなにもサーバー屋冥利に尽きることはないと思った。果たして僕たちは、そんな善意に何一つ報いなくてもいいのか、単にこれまで通り、サービス向上に努めるだけでいいのか、という気になった。
もともとは、そんな理由から開始したロリポップ!のアフィリエイト・プログラム、結果的にそれはさらなる相乗効果を生み出して、それまでロリポップ!を支えていた、いわゆる口コミという宣伝方法に、より一層拍車を掛ける形となったのだった。
社員第二号はネット友達
その年の暮れ。
仕事と育児に追われ忙しい日々を送る僕のもとに、一本の電話がかかってきた。
「カズマさーん、元気?」
電話に出るなり、耳元で響く、聞き覚えのある調子のいい口調。……誰だっけ。
「うん、元気。で……誰?」
「えー、忘れたの? おれおれ、佐藤。佐藤健太郎。ケンタロウドットコム」
「あぁ、健太郎!」
電話の主は、佐藤健太郎、二十一歳。
彼は、まだ僕たち夫婦が薬院のワンルームマンションに二人暮らしだった当時、インターネットを通じて知り合った、福岡在住の大学生だった。
当時僕は、mixdry(ミクスドリ)というタイトルの、個人サイトを立ち上げていて、健太郎は、そんな僕のサイトにふらっとやってきては、掲示板にしょうもないコメントばかり残し去って行く、ネット上の友人の一人だった。
よほど自己顕示欲が強いのか、kentarow.com(ケンタロウ・ドットコム)という、自分の名前の独自ドメインまで取得して、彼自身もまたホームページを運営していた。毎日、日記と称して更新される寒いギャグ。でも、たまに更新するコラムでは、いきなり生真面目に豹変(ひょう へん)して、鋭い視点で世相(せ そう)を切ってみたりする。この男は一体何なんだ、何がしたいんだと思わされる一方で、一つだけ確かなこと、それは彼もまた、僕と同じ、モテには一生縁のないタイプだろう、ということだった。こんな寒い日記を書く男が、実生活でモテているはずがない。そんな漠然とした先入観から何となく共感するものもあり、僕と健太郎はすぐに意気投合した。
そんなある日、ひょんなことから健太郎と僕たちとが、実は同じ町内に住んでいるということが発覚した。
「じゃあ、会おうよ」
という彼の誘いを受け、僕は指定された日時、待ち合わせ場所へと向かった。
天神、親不孝通り。ただでさえ人通りの多いこの場所で、顔も知らない健太郎を探すのは至難の業だった。何となく辺りを見回していると、向こうからアフロヘアのニヤニヤした兄ちゃんが、おもむろに近づいてくる。あれが健太郎なのか? いや……まさか。健太郎にしては随分と垢(あか)抜けている。恐らくキャバクラのキャッチのバイトか何かに違いない。僕は思わず身構えた。
「お兄さーん」
僕の側に来るなり、慣れ慣れしい口調で、そのアフロは言った。
「……なんすか」
僕が精一杯ぶっきらぼうに答えると、アフロは一瞬、あからさまに動揺した表情を見せ、
「あ、あれ……家入さんでしょ」
と言った。
「あ……うん」
「よかったー、人違いかと思った。僕、佐藤です。どうもー」
(え……これが健太郎……)
今度は僕が動揺する番だった。顔の見えないネットだからこそ、精一杯明るく振舞おうとする、本当はダサくて非モテで根暗で陰険、僕と同類の人間だとばかり思っていた健太郎が、いざ会ってみると思いがけず垢抜けている。僕は何となく、裏切られたような気がして、訳もなく無性に腹立たしさを感じた。
(だ、騙されたっ!)
……が、そんな思いも束の間。会って五分も経たないうちに、彼はさっそく本領を発揮。ネットと同様、くだらないギャグを次々と飛ばしては、次々とすべってみせた。
(これじゃあ、モテるわけがない)
パソコンのモニター越しに感じた直感が正しかったことに、僕の心は温かくなった。
僕たちはその後、特にやることもないので、とりあえず吉野家へ入り、牛丼を注文。つゆだくを待っている間に、そのとき僕らの巻いていたマフラーが、全く同じメーカーの、完全なお揃いだったことに気が付いた。無言のうちに二人ではずした。
この日を境に僕たちは、お互いの家を行き来しては食事を共にしたり、エッチなビデオを貸し借りしたりするようになったのだった。
その頃、僕と嫁は、家の中でハムスターを二匹、飼っていた。
それは、僕の弟が実家で大量に繁殖させていたもので、弟の部屋が日、一日とハムスターのケージに占領されていくことを危惧し、とりあえず二匹、うちで面倒を見ることになったものだった。ところが可哀想なことに、うちにやってきて約半年後、ハムスターは揃って病気にかかり、二匹とも死んでしまった。
その数日後、例によってうちへやってきた健太郎に、僕がそのことを告げると、彼は無言のまま、空になったケージの前に立って、しばらくの間、じっと手を合わせていたのだった。
そんな健太郎からの、久しぶりの電話。聞くと彼は、間もなく大学を卒業するのだという。
「もちろん、卒業後はうちに来るんやろ?」
僕がそう言うと健太郎は、えっ、と一瞬ためらった後で、すぐに、
「うん」
と、即決。
こうして、マダメ企画には新しいスタッフがまた一人、加わることとなったのだった。
「ペパボ」誕生
年が明けて、二〇〇三年を迎えた。
その日、僕たち一家と持永君、そして近日入社予定の健太郎を含めた、マダメ企画の全スタッフは、福岡市天神にある、某蟹料理専門店に、一挙集結していた。改めて考えてみると、僕がお酒を飲めないということもあって、飲み会なんて一度もやったことがなかった。だからこうしてみんなで、仕事以外の場で集まるのは、全く初めてのことだった。
予約しておいた個室に通され、全員がテーブルを囲むと、間もなくして、飲み物が運ばれてきた。みんなはビール、僕は相変わらずコーラ。
乾杯の前に、僕はおもむろに切り出した。
「……みんな、こうして日曜なんかに集まってくれて、ありがとうございます。実は今日、みんなに大事なお知らせがあります」
全員の視線が一斉に僕に向けられている。僕はいつになく緊張し、だらだら汗をかきながら、話を続けた。
「……みんなが頑張ってくれたおかげで、ロリポップ!はたくさんのユーザーに支持されるようになりました。会社の業績も、ぐんぐん伸びています。来月からは健太郎も働いてくれることになって……いい機会なので、会社の拠点を、天神に移したいと思います」
「おぉー」
低い歓声が上がった。反応は悪くないようだった。
「……それにあわせて、合資会社マダメ企画は有限会社になります」
「おぉー」
再び、反応は上々のようだ。
「……ついでに、社名も変えます」
「え?」
一瞬、全員の動きが止まって、その場は妙に静まり返った。そんな空気を切り裂くように、持永君が言った。
「新しい社名、何になると?」
「新しい社名は……paperboy&co.です!」
「……ぺ、ぺーぱー?」
「……ペーパーボーイ、アンドコーです。ペーパーボーイは、みんな知ってる通り新聞配達員という意味で……僕は会社を起こす前に二年間、新聞配達員をやってました。それまでは、学校も行かないで、ほとんど家の中に閉じこもって、いわゆる『ひきこもり』みたいな暮らしをしてて……。友達なんて一人もいなかったし、人の目を見られなかったから、買い物もろくにできなかった。鏡を見て、笑顔を作る練習なんかしてた。……だから、新聞配達員としての経験は、今思えば、色んな意味で、今の僕の原点になったと思うんです」
決して楽じゃない早朝の配達に、変人揃いの仲間たち。色んなことがあったけど、新聞配達員として働いた、あの二年間がなければ、今の僕はきっとなかった。これから先、僕達にどんなことが起きても、会社がどんなふうに変化していっても、いつでもあのときの初心に返れるように……。僕なりにそんなことを考えて命名した、新社名だった。きっとみんなも分かってくれる、そう思って、自信をもって発表したものの、みんなの反応は……?
一通り説明を終えると、僕は恐る恐る、全員の顔色をうかがった。
「……おぉ、なんか、かっこいい。いいねえ」
真っ先に口を開いたのは、持永君だった。
「ぺぱぼ、と略そう」
健太郎が後に続いて言った。誰からともなく自然と、拍手が沸き起こった。ほっとした。
こうして、二〇〇三年一月、合資会社マダメ企画は、有限会社paperboy&co.へと転身を遂げたのだった。
ユーザー数、業界最多に
有限会社paperboy&co.略して、ペパボ。
スタッフの増員と業務拡大に伴って、その頃すでに、自宅の一室に事務所を置くということが、現実的に不可能となっていた。そのため、会社の新しい拠点は福岡市大名(だい みょう)、国体道路沿いに建つオフィスビルの一室に、自宅とは別に新たに構えることとなった。
白い壁に、つるつるの床。一見、お洒落でも、ナウでもヤングでもない、完全に無機質なその空間は、それでも僕たちペパボのメンバーが初めて手にした、オフィスたるオフィスで、内装をどうしよう、デスクの配置はどうしよう、そんなことをあれこれ話し合いながら、僕たちは無性にワクワクした。業者に頼むと時間もお金もかかるというので、僕と持永君と健太郎、三人がかりで、床にパネルカーペットを敷き詰めた。デスクを置いて、パソコンを設置、LANケーブルを這わせたり、パーティションを立てたり、コーナーに大きな観葉植物を置いたり。あれこれやって、ようやく、仕事ができる環境が整った二〇〇三年二月、ペパボはついに、全面的にその拠点を福岡市に移したのだった。
それに併せて、僕たち一家も久留米市から、福岡市大濠(おお ほり)に引越しした。大濠公園すぐ脇の閑静な住宅街にひっそりと佇む、築十五年の年季の入ったマンション。それが僕らの新しい住まいだった。古いとはいえ、内装は全てリフォームされていて、窓からは木立(こ だち)(といっても隣家の庭なんだけど)を臨む申し分のない環境。
久留米の頃と比べると家賃はぐんとはね上がったけど、今後、息子が育っていく環境だと考えると、少しくらい頑張ったって惜しくないと思った。
引っ越して間もなく、生まれて初めての誕生日を迎えた息子。彼はまさにその日、初めて三歩、トコトコと歩いた……餅の上を。
というのも僕たち夫婦の育った福岡地方では古くから、子供が一歳の誕生日を迎えると、わらじを履かせ、餅の上を歩かせる、通称「餅踏み」という儀式を行う習慣があるのだ。息子はその本番で、生まれて初めての二足歩行に成功したのだった。僕もアキコさんも、そして、ちょうどその日、宗像から出て来ていた母さんも、これには手放しで喜んだ。息子が生まれてからの一年間、本当にあっという間だった。
その日の夜。アキコさんが息子を寝かしつけに寝室へ行っている間、僕と母さんは居間でお茶を飲みながら、久しぶりにゆっくりと話をした。
「裕子も、真啓も変わりないん?」
「うん。二人とも元気にしとるよ」
「そう。……父さんは?」
「お父さんも、この前電話があって、新しい仕事が決まったって」
「……へえ、よかったね」
母さんと、父さん。少なくとも二人が、今でも電話では連絡を取り合っているということを知って、僕は内心、少しほっとした。
「……それより、一真の仕事はどうなん」
母さんがふいに僕に質問の矛先を向けた。
「うん、順調」
「そうね……。アキコちゃんたちをくれぐれも、路頭に迷わせんようにしなさいよ。……それにしても、まさか一真が社長になるなんてねえ。こんなのが社長で、あんたの会社本当に大丈夫なんかね……」
眉間に皺を寄せながら、そんなことを言う母さん。だけどその顔はどこか嬉しそうだった。
その頃、ナウでヤングなレンタルサーバー、ロリポップ!のユーザー数は、ついにトータルで一万人を突破した。
……一万人。
一言で言ってしまうと、あまりにも数字が大きすぎてどこか現実味に欠ける。でも、そこに至るまでには、日々、何百と送られてくる質問や、クレームのメールに一つ一つ返事を返したり、思わぬところから生じる細々としたトラブルを、その都度、スタッフみんなの知恵を出し合って解決したりと、地道な作業の積み重ねがあったのだ。一台のサーバーが一杯になったら、必要に迫られる形でもう一台増設する。それも一杯になったら、また一台増設……。僕たちはただ、ロリポップ!のサーバーを使いたいと言ってくれる、ユーザーの期待に応えるために、やれることを懸命にやってきた。ユーザー数一万人という数字は、そんな経緯を経て僕たちの目の前にやってきた、極めて現実的な結果だったのだ。
一方で、急激なユーザー数の増加に伴って、ペパボは早急にスタッフを増員する必要に迫られていた。
幸い、天神に程近い大名という場所柄、募集をかけると、選ぶのに苦労するくらい、たくさんの人が応募してきてくれるようになった。中には、有名大学を出た人や、大手企業に勤めていた人など、華々しい経歴で履歴書がぎっしり埋まっているような人もいる。だけど当時から今まで、一貫して言えることは、ペパボにきてもらう上で、それまでの学歴や職歴は大して問題にならないということだ。せっかく書いてもらっているのに悪いけど、僕が履歴書を見るとすれば、せいぜい自己アピールや、入社して何をしたいか、という欄くらい。そこに、僕でもおかしいと思わないくらいの、最低限の日本語能力が認められて、なおかつ、考え方が明らかに会社のカラーと合わない人でなければ、僕は履歴書だけではまず落とさない。
というのも、何より僕自身が大学を出てない、高校すら中退なわけで、もし社長になるにも書類審査が必要だとすれば、まず間違いなく、不合格になってしまうからだ。
履歴書だけで、その人のことをちゃんと知るのは不可能だ。だから僕は、履歴書を穴が開くほど見る代わりに、なるべく長い時間をかけて、応募してきてくれた人と会って、話をする。もちろん、二、三十分話しただけで誰かを完全に理解したつもりになるのも問題だけど、それでも、短い時間を共有することから得られる情報はたくさんある。
そんなわけで、度重なる面接を繰り返し、ペパボで働くスタッフも日を追うごとに一人、また一人と増えていった。大名の事務所に拠点を移して約半年、気が付くと、もうそれ以上、新しいデスクを置けないほど、事務所はスタッフで一杯になってしまった。そこで僕たちは同じビル内のもう一つ大きい部屋に、引越しをした。でも、結局はすぐにそこも手狭になって、福岡市進出から約一年後、ペパボは同じ大名に建つ別のビルの、広さ約七十坪ほどの一フロアに拠点を移し、ようやく何とか落ち着いた。
当初、社内に持永君と僕だけだったプログラマーも、一人、また一人と増員を重ねるうち、新事務所に移った頃には「システム開発チーム」が結成されるまでになった。
お客様サポートとして入社した健太郎は、社内に新設された管轄、広報として、新しい仕事に取り組んでいた。
順調に増え続けたユーザー数はついに、業界最多の二万五千人を突破した。
最大の試練
そんな、ある日のことだった。僕の元に、一通の封書が届いた。送り主は、当時ロリポップ!で使うサーバーの一部を借りていた、某法人向けレンタルサーバー会社、A社。
(なんだろう……)
毎月送られてくる請求書や、利用明細書とはどこか様子が違って、何となく嫌な予感がした。恐る恐る封を開け、同封されていた書類に目を通し、僕は愕然とした。
〈……大変急ではございますが、来月一日より、弊社における全サービスを停止させて頂きます……〉
残念ながら、悪い予感は見事的中。先月まで何の支障もなく営業していたA社が、突如として、事実上の破産を報告してきたのだ。しかも、半月もしないうちに、全サーバーをストップさせるという。
(どうしよう……!)
頭の中が真っ白になった。というのも当時、ロリポップ!で使っていたA社のサーバーは十数台、ユーザー数にしておよそ五千人分にも及んだ。なおかつ、そのほとんどが、半年契約や、年契約として、数ヶ月分の利用料を前払いで支払ってくれているユーザーばかり。利用料を受け取っている以上、一日たりとも、サーバーを止めるわけにはいかない……。でも、そうかと言って、並行して使っている他社のサーバーに、五千人分ものデータを移行できるだけの空きなんて当然なかった。残る手段は、何とか他社で、新しいサーバーを急遽用意してもらうことだけ。けれども、それだって通常は、増設を申し込んでから諸々の手続きが完了するまで、一台につき最低でも二週間はかかる。ましてやそこから先、五千人分のデータの移行は、全て技術者の手作業だ。
(間に合うわけない……)
考えれば考えるほど、絶望的な状況だった。下手すれば、巻き添えを食ってペパボまで倒産、なんてことになりかねない事態。
(……落ち着け、落ち着かなくちゃ)
僕は、一旦深呼吸をして、椅子に深く座りなおした。呆然とする頭で、見るでもなく事務所の中を見渡すと、引っ越してきたばかりのころには、まだ幾分か空間のあった広い室内が、いつの間にかぎっしりと、たくさんのスタッフで埋め尽くされている。
(……こんなにスタッフがいたんだ)
改めて、そう感じた。と同時に、ふと、あるスタッフのデスクに目が留まった。パソコンの脇には、最近生まれたばかりだという彼の子供の写真が、何枚も、何枚も貼られていた。
ロリポップ!を始めて二年、その間僕は、何千というユーザーの声を聞いた。少ないお小遣いから、毎月のサーバー代を支払ってくれている学生。ナウでもヤングでもありませんが、なんてメッセージを添えて申し込んでくれる中高年。
ネットサーフィンをしていて、たまたま開いたホームページがロリポップ!のサーバーで運営されている、そんな嬉しい遭遇も、以前よりぐんと多くなった。
約二万五千人というユーザーたちが、ロリポップ!のサーバーを使って、それぞれのやり方で自分なりの表現をし、主張をし、それを通じて、誰かと繋がっている。
少し前までそれは、唯一僕だけの知る喜びで、そこに至るまでの苦労もまた、唯一僕だけの味わう、孤独な苦労だった。でも、そんな状況は一変した。今や何十人というスタッフが、僕と同じように、地道な作業を日夜積み重ねてくれていて、また僕と同じように、ユーザーに支持される喜びを知ってくれている。
モニターの向こうに存在する沢山のユーザーたち。
僕の目の前で懸命に、それぞれの作業に取り組むスタッフ達。
もう、僕一人の会社じゃない……。
そう思った瞬間、僕はただ無性に、恐い、と思った。いつの間にか、あまりにも大きな責任を、僕は背負ってしまっていた。もし今ここで、会社が倒産でもしようものなら、膨大な数のユーザーと、目の前にいるスタッフたちが、一斉に路頭に迷ってしまう。もしこの状況を乗り切れなかったら……。もし会社が立ち行かなくなったら……。足ががくがくと震え、冷たい汗が額を伝った。
……でも。一方でそんな人たちの存在が、今までの僕にとって、家族と同じくらい、何にも代えがたい支えとなってくれている、そのこともまた否定しようのない、事実だった。
ずっと前、子供だった僕は、些細なことで友達を失った。それ以来、長いこと一人で、来る日も来る日も、鏡を見ながら笑顔の練習をした。あの頃の僕には想像もできなかった。その後、僕の周りに、こんなにもたくさんの人たちが集まってきてくれることなんて。僕がもう、頑張らなくても、心の底から笑えるようになっていることなんて。
僕の大切な人たちを守りたい。支持してくれるユーザーたち、一緒に頑張ってきた仲間たち、そして、家族。大切な人たちを、何としても、守らなくちゃいけない。僕は、改めてそう、強く思った。そのためには、こんなことで動揺なんてしてちゃいけない……。
「……サーバーチーム、ちょっといいかな」
僕はすぐさまサーバー管理の担当者を呼び集め、努めて冷静に、状況を説明した。
「実はA社が、来月一日から、全サーバーをストップさせるって言ってるんだ」
「え? そんな、いきなり……!」
「ユーザーは、どうするんですか!」
スタッフたちも皆、一様に、激しく動揺していた。
「……大丈夫。まずは他の業者に頼んで、確保できるだけのサーバーを確保するんだ。セットアップまでの期間を早めてもらえないか、僕が交渉してみる。……大変だけど、とにかく頑張ろう」
「……はい!」
そこから約半月の間、ペパボを、怒涛の日々が襲った。
A社と平行して取引していた別のサーバー業者に無理を言って、通常の約半分の日数で、十数台分のサーバーを何とか用意してもらえるように頼み込んだ。それでも準備が整ったのは、A社が伝えてきたサービス停止期日の五日前で、そこから先は、僕を含めたサーバー管理者全員の手作業。連日、事務所に泊まりこんでは、五千人分のデータを一つ一つ、新しいサーバーに移し代えた。睡眠不足で朦朧(もう ろう)とする意識の中、極限状態の作業だった。
そんな中で、ついに迎えた、Xデー。
全ての作業が何とかギリギリ間に合って、僕たちは無事、それまでと変わらない朝を迎えることができたのだった。
「……大丈夫そうだね」
新しいサーバーが、何とか正常に動いていることを見届けると、全員の肩の力がどっと抜けた。
「俺、家に帰ってシャワー浴びてきます……」
「とりあえず眠ってきます……」
「うん……。とにかく本当にみんな、お疲れ様」
「……お疲れ様でした!」
「お疲れ様」。
そう言い合ったとき、僕は思わず泣きそうになった。少し前なら、全部僕一人でやっていたことだった。それを今、こうして一緒に乗り越えられる仲間がいる。乗り越えて、お疲れ様、とねぎらい合える仲間がいる。そのことが、たまらなく嬉しかった。
次の章:第六章 成功、そして未来へ
目次
全文公開にあたって
プロローグ
第一章 貧乏な家に生まれて
第二章 「ひきこもり」だったあの頃
第三章 長いトンネル
第四章 起業前夜
第五章 ペパボ黎明期
第六章 成功、そして未来へ
エピローグ
新装版にあたって
解説 佐々木俊尚
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