こんな僕でも社長になれた - 第一章 貧乏な家に生まれて
お金がないゆえの幸せ
まんまるなお顔
細いおめめ
天を向いたお鼻
だけどあなたは世界で一番かわいい
あなたは私たちの宝物
丈夫に元気に育ってね
僕が生まれて間もなく、産院のベッドの上で、僕の母さんはこんな文章を記した。何てことないメモ用紙の端切れに、ボールペンで書き留められたこの短い詩は、父さんの手で二十七年もの間大切に保管され、先日ついに、僕のもとにやってきた。
一九七八年、十二月二十八日。
福岡県、宗像(むなかた)市。海と山に囲まれた、自然豊かなこの田舎町で、運送業を営む父さんと、主婦業のかたわら化粧品の訪問販売の仕事をする母さんとの間に、僕は生まれた。三歳下の妹と、六歳下の弟との三人兄妹。僕たちを養うために、父さんも母さんも、昼夜問わず、寝る間も惜しんで働いてくれた。
けれども不思議なことに、僕の家はいつだって貧乏だった。
八畳の居間と六畳の子供部屋、洗面所を兼ねた台所、脱衣所のない風呂、汲み取り式の便所、それに、向かいに住む大家さんと共同の小さな庭(的なスペース)。そんな至ってシンプルな構造の、傾きかけた一軒家が僕らの住まい。
家族五人に、愛犬一匹、そんな大所帯で暮らすには明らかに定員オーバーなんだけど、実際問題、僕の家は、それ以上に広くて、綺麗で、快適な家に引っ越すだけの潤沢な資金に乏しかった。だから、どんなに狭かろうと古かろうと、どんなに砂壁の砂が剥がれ落ちようと、シロアリが大黒柱の中を食い尽くしてすっからかんにしていようと、その中で何とか生活していく他なかったのだ。
そんなわけで居間も子供部屋も、夜になれば一間の寝室になったし、お客さんが来れば一間の客間になった。風呂には脱衣所がなかったから、僕たち兄妹も、もちろん父さん母さんも、みんな居間でスッポンポンになってから風呂に飛び込む。歯磨きも、顔を洗うのも台所の流しだった。ついでに言うと、毎日風呂に入るのは夏だけで、気候の穏やかな春・秋・冬の入浴は二日に一回が普通だと、僕たちは親から確かにそう教わった。
非常に悲しいことに、生まれたときからそんな中で生活していると、それがまるで当たり前だと思い込んでしまう。当然、世の中の人も居間でスッポンポンになっている、お風呂には二日に一回くらい入っている、てっきりそう思い込んでしまう。特に僕の家では、父さんも母さんも、僕たちに極力、それを感じさせないように気を配ってくれていたから、まさか自分の家が貧乏だとは思ってもみなかったのだ。
そんな僕が、ようやく世の中との認識の違いに気づいたのは、小学校高学年に上がる頃のことだった。仲良くなった友達の家に初めて一晩、泊まることになって、そこで僕は、本当に様々な未知との遭遇を果たした。
「母さん! 中村君の家には、風呂の横に、服ば脱ぐための小さか部屋があったっちゃ!歯もそこで磨けるごと、水道が付いとるんばい! 台所で磨かんやったとばい! しかもお風呂は毎日入るとげな!」
帰宅後、まくしたてるように報告する僕に、母さんは穏やかにこう答えた。
「へえ、中村君ちは、お金持ちなんねえ」
家に脱衣所があって、歯磨きもそこでできて、しかも毎日風呂に入れて……お金持ちはいいなあと、そのときの僕は思ったのだった。
が、実は中村君ちが特別にお金持ちなわけじゃなく、むしろ僕の家が特別に貧乏らしい……子供ながらに、僕はそのことに薄々気が付き始めていた。
改めて考えてみても、僕たちの洋服なんかシャツからパンツに至るまでほとんど、従兄弟のお下がりだったし、家の中の家具は見渡す限り全部、中古。僕たちの遊び道具はもっぱら、父さんが仕事で譲り受けてくる山のようなダンボールと、一歩家の外へ出れば嫌というほどある宗像の大自然。僕たちの足として自転車は必需品だったけど、それだってゴミ捨て場に捨ててある壊れたものを、父さんが拾ってきては修理してくれたから、一度として新しいものを買ったことがなかった。
だけど、不思議と僕は、それを決して嫌だと思ったことはなかった。
「一真、何色が好きか?」
パンクの修理、ブレーキの点検など、自転車の修理が一通り終わると、父さんが僕に声を掛ける。
「じゃあ……緑!」
僕が答えると、父さんは納屋(な や)からペンキを取り出して、自転車に新しく緑の塗装を加える。ついでに、僕の要望に応えて、ヒーローバイクさながらに色々と装飾まで施してくれるから、一度はボロボロになって捨てられたその自転車は、結果的にどこに行くにも、僕の自慢の種になった(盗まれたこともあった。泣いた)。
母さんはいつも、どこからともなく中古の家具を譲り受けてくる。放っておけば狭い家は、そんな母さんの貰ってきた家具類で足の踏み場もなくなってしまうのだけど、そんなときに頼りになるのは父さんだ。
「またこんなの貰ってきて……」
小言を言いながらも工具を取りだし、よそからやってきた使い古された家具を、器用な手つきで我が家にちょうどいいサイズに作り変えてくれるのだ。
また、滅多に新しいおもちゃを買ってもらえない僕たち兄妹にとって、母さんが取っておいてくれた食品の空き箱や、父さんが仕事先から持って帰ってきてくれるダンボールは格好の遊び道具だった。
あるとき、父さんが僕らのためにと作ってくれたダンボールの家は、屋根があり、窓があり、玄関があり、内部には迷路ありと、子供の遊び心を最大限にくすぐる、それはそれは立派なものだった。ところがあまりに立派過ぎて、僕らの狭い家の中に置いておくと生活に支障をきたすようになってしまった。そこでやむを得ず、当時僕の通っていた幼稚園に寄贈することとなったのだけど、やはりそれは、たちまち子供たちに大人気を博し、幼心に何となく誇らしく感じたのを憶えている。
当時の僕たち家族に、決してお金はなかった。でも、そんな中にも何とか暮らしを豊かにしようという知恵と工夫があった。今思えば、それは家族の中での豊かなコミュニケーションがあったからこそのものだった。
当の父さんと母さんはきっと、僕たち子供からは見えないところで随分と大変な思いをしたに違いない。けれどもその実、僕らにとって、ああしよう、こうしようと話し合いながらの毎日は、何にも代えがたく楽しかった。
父さんは九州男児
平均的な家庭より若干貧しい、その点を除けば、僕たちはさながら、テレビドラマに出てくる、絵に描いたような「家族」だった。
月に一回は家族揃って外食(といってもせいぜいファミリーレストランや回転寿司なんだけど)をして、夏休みには毎年キャンプに出かける。クリスマスには欠かさずサンタクロースがやってきて、手紙とプレゼントを枕元に置いて行ってくれた。
あるクリスマスイブの夜、僕は例によってダンボールで立体迷路を作って、枕元に置いておいた。与えてばかりのサンタクロースへの、ささやかなプレゼントだったのだ。次の日の朝、サンタクロースはきちんとその手作り迷路を持ち帰っていてくれて、ついでに僕へのプレゼントに添えられていた手紙には「迷路をありがとう、大切にするよ」と書き残してあった。嬉しかった。
だからその翌日、学校で、
「家入君、サンタクロースとかまだ信じとると?」
こんなふうに友達に告げられたときの衝撃と言ったら……僕は激しく打ちひしがれた。
もちろん僕だって、薄々そうじゃないかな、くらいに勘付いてはいたけど、こうもはっきりと断定されてしまったそのあまりのショックに、家に帰るなり布団にもぐって泣いた。
小学五年生の、冬のことだった。
少し話は脱線したけど、とにかくそんなふうで、僕の家は家族で迎えるイベントにことのほか熱心だった。それは主に父さんの意向で、誕生日のケーキとろうそく、夏休みのアウトドア、クリスマスのサンタクロース……そういったもの全部が、「家族」という集団を形作る上で、父さんにはなくてはならない要素だった。根が真面目な父さんにとって、たった一つでも欠けてはいけなかったのだ。
もちろん僕たち子供はというと、もっぱらその恩恵にありがたく授かっていたんだけど、一方で少なからず、そうでもないと感じることもまた、あった。
福岡は北九州産まれの父さんは、当時にしても珍しい絵に描いたような九州男児、さだまさしも真っ青の亭主関白だった。だから母さんも、そして僕たち兄弟も、父さんが一度こう、と決めたことには間違っても逆らえなかったし、父さんの唯一嫌いな食べ物、牡蠣(か き)は間違っても我が家の食卓に上らなかった。もらい物の牡蠣を、父さんの帰宅前に牡蠣フライにしてこっそりたいらげてしまった、なんて事実すら打ち明けられないほどだったのだ。当時、すでに一般的には死語となっていた「地震・雷・火事・親父」は、僕の家では立派に健在だった。
父さんの機嫌の良し悪しで色々と状況が変わってくるから、仕事が休みで父さんが一日中家にいる日なんかには、家族全員が絶えずピリピリと緊張感を漂わせつつ父さんの顔色をうかがっていた。
だけどそんな父さんは父さんなりに、子供に歩み寄ろうと努力してくれていた。それはいくら子供だった僕たちにも分かっていた。何しろ目の回るほど忙しかった仕事の合間をぬって、本屋で買ってきたドリルを僕たち兄妹にやらせたり、僕を川原へ誘ってキャッチボールの相手をしてくれたりしたのだ。
ただ悲しいことに、父さんに勉強を教えてもらうと、僕が答えを間違えるたびに父さんの機嫌が目に見えて悪くなる。そして皮肉にも僕は滅多に一度で正解を出さない子供だったから、決まって最後には、
「どうしてわからんとかーっ!」
と、大きな雷を落とされるのだった。
キャッチボールに誘われても、日頃から恐怖の対象である父さんと二人きりになってうまく会話が続くはずもなく、結局終始漂い続ける気まずい空気に、キャッチボールを楽しむどころでなくなってしまう。
そんなわけで、僕や妹はいつの頃からか、父さんが仕事から帰宅する足音を聞きつけたと同時に、居間から子供部屋の隅のほうへ、暗黙のうちに足早に移動するようになっていた。それは時に、露骨(ろ こつ)に父さんを避けるようにして。
いざ自分が父親となった今、改めてあの頃を振り返ると、僕たちはなんて残酷だったんだろう、と思う。父さんはいつだって僕たち兄妹のこと、そして母さんのことを、深く想っていてくれたのだ。もちろんそれは子供だったあの頃にも、わかっていたんだけど、わかってはいても、それを踏まえて父さんなりの愛情表現を受け止めるには、当時の僕たちはまだ少し、幼すぎたのかもしれない。
夢の二段ベッド
僕が六歳のとき、家入家の第三子にあたる弟が生まれた。それまで僕たち家族は、夜になると狭い家の中いっぱいに布団を敷き詰めて家族全員、川の字で眠っていた。ところが家族が増えたこと、そして僕たち兄妹も成長して体が大きくなってきたこともあって、これまでと同じように横並びに寝るのが難しくなってきた。
そこである日、もともと手先が器用だった父さんが、日曜大工で僕と妹の二段ベッドを誂(あつら)えてくれることになったのだった。
当時の僕たちにとって、二段ベッドとはまさに夢の存在だった。友達の家で見たりすると、いいなあ、と思うものの、家入家の狭い家にはとてもじゃないけど置けないとわかっていたから、おねだりさえしなかった。……そんな、夢の二段ベッドがいきなり現実のものとなったのだ。
父さんはまず、知人の家から相当に年季(ねん き)の入ったお古の二段ベッドを譲り受けてきてくれた。大部分の塗装は剥がれ落ちて、色んなとこにシールがべたべたと貼り付けられている、悲しいくらい古いベッド。父さんは手始めに、迷うことなくその二段ベッドをのこぎりやトンカチでバラバラに分解し始めたのだ。僕は急に不安になった。もしかしてあまりの程度の悪さに、父さんの気が変わってしまったんじゃないかと思ったのだ。
(捨てちゃうのかな……)
すると父さんは、そばで見ていた僕をおもむろに手招きして言った。
「一真、お前もやってみらんか」
僕は一抹の不安を抱きながらも、言われるままに父さんに近づいて、見よう見まねでのこぎりを引いてみた。ところが、これが案外難しい。父さんがやっているのを見る限りではいかにも簡単そうに見えるのに、いざ自分がやってみると、どんなに力をこめても、刃はくねくねと左右にしなるばかりで、全然前へ進まないのだ。
そんな僕を見かねて、父さんが手を貸してくれた。のこぎりの柄(え)を握る僕の手に、父さんのごつごつした手が重ねられる。そこにぎゅっと強い力がこめられたのと同時に、刃は勢いよく前へと送られた。木屑(き くず)が飛んで、小刻みな振動が腕に伝わった。ぎぃっ、ぎぃっ……ベッドの底部分にあたる薄い天板は、そんな振動を数回繰り返すと、あっという間に真っ二つに切り離された。のこぎりの柄から手を離した後もしばらく、僕の手にはじりじりとしびれたような感覚が残った。
そこから先は再び父さんの仕事。僕の出番はあっけなく終わった。僕とは比べ物にならないスピードで次々とパーツを切り出していく父さん。それが済むと今度は、表面にやすりをかけたり、ペンキを塗ったりして、最後に全部を元通りに組み立てると、たちまち新品同様、でも家入家用に一回り小さくなった、父さんのオリジナル二段ベッドが完成した。
(捨てられなくてよかった……)
心底ほっとした。
当然、長男の権限で上段を占拠した僕。最終チェックを終えて、父さんのお許しが出ると、僕は誰より先にベッドに飛びついた。初めてはしごを上ったあのときの感覚を、僕は今もはっきりと憶えている。奥行き数十センチ、立ち上がることはおろか、上半身を起こすのがやっとのその空間は、狭くても、暗くても、紛れもなく僕が生まれて初めて手にした、自分だけの場所だった。
「ありがとう、父さん」
興奮しながらそう言う僕に、父さんは満足げに目を細めて、笑った。
あの頃から、約二十年という月日が経った。後にも触れるけれど、色々とあって、父さんは今、一人で暮らしている。
決して大柄ではない父さん、でも、夏のキャンプでテントの張り方を教えてくれたあのとき、ダンボールでおもちゃの家を作ってくれたあのとき、そして僕たちのために二段ベッドを作ってくれていたあのとき、父さんの背中は、いつもの何倍も大きく見えた。
だけど、そうじゃない何気ない日。仕事から帰ってきて、母さんの淹(い)れた熱いコーヒーを、居間でたった一人ですする父さんは、どこか少し淋しげで、今でもそのことを思い出すと、僕は無性にやりきれない気持ちになる。あの頃、恐くても、うるさくても、父さんを避けたりなんかしないで、もう少し自分から父さんに歩み寄ってあげられていたなら。今も、そんな風に感じずにはいられないのだ。
いつも優しかった母さん
幼い頃、僕たち兄妹は、毎晩のように母さんに絵本を読んでもらっていた。と言っても、家にある絵本は限られているから、自然と同じ絵本をヘビーローテーションで読んでもらう。するとそこは、ただでさえ記憶力のいい子供時代。たちまち本の文章を丸まる覚えて、そらで言えるくらいになってしまう。
そこまでくるといい加減飽きてくるので、より新しい面白さを求めて、今度は同じ絵本を後ろから、さかさまに読んでもらうのだ。(「あかずきんちゃん」なら、「んゃちんきずかあ」みたいに)。ある意味これもベンチャースピリット、新しい絵本の楽しみ方として世の中に提唱したい。母さんが、口をもごもごさせながら苦戦する様子に、僕たち兄妹は毎回おなかを抱えて大爆笑していた。
そんなわけで、僕たち兄妹はみんな、母さんのことが大好きだった。優しくて、どこかとぼけたところのある母さんの周りに、僕たちは自然といつも集まっていた。
今は亡きじいちゃんとばあちゃんの家、つまり母さんが子供時代を過ごした熊本の家には、ニシキゴイの何匹も泳ぐ大きな池があった。
もともとはそれなりに豊かな家で育った母さん。ところが十七歳の夏、高校卒業まであと半年というときになって、なんとイキナリ家出、そして上京。美容師になりたい、今しかないと考えた末に、手元にあった五千円を持って家を飛び出したのだという。
「お金がなかったけんねえ、八百屋さんから、本当は捨てるはずの野菜の切れ端、ただでもらって、何とか食べつないだんよ」
いつか、母さんが僕にそんなことを話した。頼る当てなんて全くない、東京での生活。想像もつかないけど、きっと相当な苦労を味わったに違いない。しばらくして、母さんの居場所を突き止めたばあちゃんが、何も言わずに母さんに数万円の仕送りをしてくれたんだそうだ。だけど母さんはそれさえ、「自分みたいな娘に、もったいない」と言って、一切手をつけずに、送り返したのだという。
生きるために働く、ただそれだけで精一杯だったという母さん。結局、美容師になるという夢は果たせないまま、十年後に帰郷。実姉(じっ し)夫婦の家に住まわせてもらいながら近くの喫茶店でアルバイトを始めた。そんな当時、同じ喫茶店で雇われマスターをしていた年上の男性というのが父さんだった。
結婚当初から、二人の生活は決して裕福ではなかったらしい。それまでの給料じゃ、家族は到底食べていけないからと、僕が生まれて間もなく、父さんは喫茶店を辞め、自営で運送業を始めた。ところがそれでも、なかなか思うように収入を得られずに、仕方なく母さんも、日中僕を保育園に預けて仕事に出るようになった。
仕事と、家事と、三人の子供の育児と。僕が知っているだけでも、母さんは本当に毎日、休む暇なく忙しく働いていた。だけど、どんなに忙しい中にあっても、僕たちの話には必ず耳を傾けてくれた。保育園や学校で、僕らが少しでも理不尽な目に遭うと、当の僕たち以上に腹を立てて、立ち向かってくれた。後から聞いた話では、そんな母さんは友達や親戚から「過保護過ぎる」と非難されることもあったそうだ。でも、
「自分の子供やけん。してやり過ぎることなんてないと」
それが、一貫した母さんの持論だった。
あれは、僕が小学五年生の頃のことだった。当時僕ら兄妹の小遣いは学年×百円と決まっていて、その中からコミックを買ったり、駄菓子を買ったりしていたんだけど、僕はあるときふと思い立って、五ヶ月間、その小遣いを一円も使わず、貯金した。小学生にとっての五ヶ月という期間は、大人になった今感じるそれに比べると恐ろしく長く、
「家入君、菓子、買いに行くばい」
「家入君、コロコロコミック、今日出るっちゃが」
そんな風に、何度となく色んな誘惑にも襲われた。でも、僕は耐え抜いた。耐え抜いて、母さんの誕生日に、ハンドバッグを買ってプレゼントしたのだ。近所の「寿屋(ことぶき や)」というちょっと大きめのスーパー(でも、当時の僕らにとってそれは間違いなくデパートだった)で買った安物、しかも子供が選ぶものだから、今思うとひどいデザインだった。
けれども、そんな僕のプレゼントに、母さんは涙を流して喜んでくれた。
「ありがとう一真、大切にするね」
そう言って、本当に長い間、その安物のバッグを使い続けてくれたのだ。
ささいなプレゼントに喜び、他愛(た わい)ない話に心から笑ってくれる母さん。そんな母さんは、僕たち兄妹にとって一番の心の拠り所だった。でも、たまにふとしたとき、どこか遠くのほうを見るようにして、
「人間は結局、みんな一人やけんね」
そんな風に口にすることがあった。僕はそれを聞くといつも、子供心にぼんやりとした不安を感じるのだった。
ご馳走はお茶漬け
僕の家は間違いなく貧乏だった。けれど、近所に住んでいた同級生、ムラタ君の家も、やっぱり貧乏だった。だから(と言うのも何だけど)僕たちはとても仲が良かった。お互いの家を行き来し合っては、毎日のように一緒に遊んでいた。
ある日のことだった。いつものようにムラタ君ちで遊んでいると、普段は共働きで滅多に家にいないムラタ君のお母さんが、めずらしく早く帰ってきた。ムラタ君のお母さんは、僕を見て言った。
「あらぁ、家入君、来とったんねぇ。せっかくやけん、おばちゃんちでご飯食べて行き」
「うん!」
そんなわけで、その日の夜は、ムラタ君ちで夕飯をご馳走になることになった。
繰り返し言うけれど、ムラタ君ちは貧乏だったので、僕がいるからといって特別派手なおかずが食卓に並ぶというわけでもなく、はっきりとは憶えてないけれど、味噌汁とご飯と、から揚げがあったような、なかったような、そんな食事だったと思う。でも、子供にとって友達の家で食べる食事というと、それだけで十分に特別な気持ちを味わえるご馳走だったので、僕はモリモリと、恐らくがっつくように食べていたと思う。
そのせいなのか、どうなのか、出された食事を一通り食べ終えた僕に、ムラタ君のお母さんが、「お茶漬け食べるね?」と聞いてきた。
「食べる、食べる!」
すかさず、僕は力強く答えた。何しろ当時の僕らにとって、お茶漬けはご馳走だったのだ。香ばしいあられ、香り高い刻み海苔、そして緑茶のほろ苦さと調和を保ったうまみの効いた出汁……。もちろん子供の頃からこんなこと考えて食べていたわけじゃないけど、当時の僕にとって、お茶漬けの素で食べるお茶漬けは、ステーキやお寿司と並ぶ、贅沢品だった。
僕の家でも、永谷園のお茶漬けの素なんか、ごくたまに買い置かれることがあったけど、基本的には、トラックでの配送を終え、夜遅く帰ってきた父さんの夜食用だった。だから、僕たち子供が唯一、お茶漬けを口にすることができたのは、深夜、父さんの食事中に運良く眠りから目を覚ました、たまの機会だけ。布団から飛び出て、父さんの側にくっついて口を開けて待っていると、一口か二口、貴重なお恵みを分けてもらえるのだ。でも、あんまり欲を出しすぎると、「はよ寝らんか!」と父さんの逆鱗(げき りん)に触れてしまう。その辺りの見極めも肝心だ。
そんなわけで、いくら食べたくても、滅多にめぐり合えない嗜好品に、まさかよりによってムラタ君の家で出会うことになるとは……。僕は興奮すると同時に、少し戸惑いを覚えた。ムラタ君の家は、貧乏じゃないのだろうか……?
ところが、はい食べんね、とムラタ君のお母さんに差し出されたお茶碗を見て、強烈な衝撃を受けた。刻み海苔がない……あられもない……。そこにあったのは、白ご飯に冷たい麦茶がかけてあるだけの、至ってシンプルな「お麦茶漬け」だったのだ。
味も素っ気もないそのお麦茶漬けを、さらさらと無言でかっこみながら、僕は、胸の中で大きく膨れ上がっていた期待という名の風船が、パチンと音を立てて弾けたのを感じた。やっぱり、そうだよな……と。
そんなこんなで、貧乏つながりのムラタ君を始めとして、カレー屋の一人息子・立野君。泣き虫だった遠野君。キュウリを三本食べないと三日後に死ぬという呪いを僕にかけた田中(僕はキュウリが大の苦手だった)。自分で言うのも何だけど、クラス一の人気者だった僕の周りは、いつもたくさんの友達であふれていた。
それもそのはず、大のおしゃべり好きで、お調子者だった僕は、とにかく友達を楽しませること、笑いを取ることに、ひたすら全力を注いでいたのだ。あるときは友達の家の石灯籠(いし あん どん)を、力づくで押し倒した。あるときは顔中に真っ赤なペンキを塗って学校中を練り歩いた。どちらも後々こっぴどく叱られたけれど、その場にいた友人たちには大ウケにウケた。あの頃の僕にとって、家族や友人を楽しませるという行為は、何にもまさる喜びだったのだ。
勉強もそこそこ。運動は苦手。運動会のかけっこでは、両手でダブルピースを作って、カニ走りするようなふざけた子供だった。調子に乗ってやりすぎては、毎日のように誰からともなく叱られた。それでも、そんな僕の周りは、いつも友達であふれていた。
人は自分の過去を振り返るとき、一番最初に、どんな光景を思い浮かべるだろう。
家族、友達、大切にしていたもの、慣れ親しんだ棲家……。
不思議なことに、僕があの頃のことを思い出すときにいつも真っ先に思い描くのは、他でもない、子供だった僕自身の、笑顔なのだ。
叱られたり、喧嘩したり、ささいなトラブルは毎日のように起きたし、何日か頭を悩ませる難問にぶつかることもあった。子供ながらの純粋さに、傷つくこともあった。家にはお金がなかったから、欲しいものを我慢しなくちゃいけないことも、少なからずあった。
それでも、あの頃の僕は、毎日が本当に楽しかった。楽しい中で、心から素直に笑うことができた。
だけど、その後訪れることになる大きな変化を経て、あの頃の僕の笑顔は、他でもない僕自身にとって、世の中で最も眩しく、そして最も遠い存在へと変わることになるのだった。
目次
全文公開にあたって
プロローグ
第一章 貧乏な家に生まれて
第二章 「ひきこもり」だったあの頃
第三章 長いトンネル
第四章 起業前夜
第五章 ペパボ黎明期
第六章 成功、そして未来へ
エピローグ
新装版にあたって
解説 佐々木俊尚