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娘たちを車に乗せ学校へと向かっていたはずが、ぼんやり考え事をしていたせいか、気づけば通り過ぎてしまっていた。登校時間はとっくに過ぎている。こんな時に限って、と自分に苛立ちながら、Uターンできる場所を探し車をゆっくりと走らせていた。
すると、不意に後部座席から声が。
「浅間山が、綺麗だねえ。」
次女がぽつりとつぶやく。
それに応えるように、長女も静かに言った。
「浅間山は、綺麗だよねえ。」
焦燥に霞んでいた意識が引き戻され、重たいまぶたを持ち上げる。視線の先には、澄み切った冬空が広がっていた。まるで鮮やかな青い色紙を山のかたちに切り抜いたかのような空。そのふちに、浅間山が白い雪の帽子をすっぽりとかぶって、静かに佇んでいる。
綺麗だねえ。
遅れを気にする心とは裏腹に、山はただいつものようにそこにあり、変わることのない美しさを湛えていた。その山をあらためて美しいと感じる子供たちの感性が愛おしい。
思いがけず訪れた回り道が、目に映るいつもの景色に新たな意味を与えた。
言葉が世界を分つ。
僕たちは世界を理解するために、あらゆるものに名前をつける。たとえば虹。赤、橙、黄、緑、青、藍、紫——そう言葉にすることで、境界があるかのように感じるけれど、実際には色と色の間には明確な線などない。ただ、なだらかに溶け合いながら移ろっている。
現実もまた、はっきりと分けられるものではないのかもしれない。偶然と必然、夢とうつつ、親と子——それらは明確な境界を持たず、どこかで滲み合い、重なり合っている。
偶然に生まれた余白の時間は、交わるはずのなかった現実と溶けあい、淡く滲む「あわい」を生み出す。
大和言葉では「間」と書いて「あわい」と呼ぶ。挟まれた空間を指す「あいだ」に対して、「あわい」は「合う・会う」を語源とし、それぞれが重なるところ、交わった空間を言うらしい。
遅刻したり、遠回りしたり、ときには引き返したり。人生はいつも予定通りにはいかず、思いがけない道へと迷いこむ。けれど、最短の直線距離を行くばかりでは見えない景色がある。
虹の色が滲み合うように、ふと生まれる時間の「あわい」に身をゆだねながら、その流れのなかで揺蕩うように生きていくのも、悪くない。
親と子の交わる時間も空間も、きっと一瞬のうちに過ぎ去るのだろう。けれど、その一瞬の「あわい」に、確かに重なり合った記憶が残る。
車はまだUターンの場所を探している。
もういっそのこと、このまま浅間山まで行っちゃおうか。そんなことをほんの少しだけ思いながら、再びハンドルを切った。