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恥をかきなさい

「恥をかきなさい。」そう言われた気がした。

Soup Stock TokyoやChain Museumなどをやられている遠山さんとの代官山ロータリークラブでのトークイベント。遠山さんがホスト、僕がゲストで、僕の生い立ちから今に至るまでなど、さまざまなお話をした。

代官山ロータリークラブの皆さん

かつて僕は画学生だった。芸大の油画科を目指して予備校に通った時代があった。結局、家庭の事情などで進学は叶わず、21歳で起業して今に至る。

ずっと表現者に対して劣等感があった。本来は自分もそっち側なのだ、なのに、という思いがあった。なぜ、自分はビジネスをしているのか?ビジネスでいくら上手く行っても、どこか満たされない自分がいた。命を削って作品を作り出すアーティストを尊敬する一方、そうはなれなかった自分とを比較しては落ち込んでいた。

30代半ばになってからだろうか、「社会」というキャンバスに「ビジネス」といった「表現」をしているのだ、そういった意味では自分もまたアーティストなのだ、と考えるようになってからは、少しは楽になれた気がした。

自分自身の過去の傷つきをもとに、自分がやる意義のあることを、社会に表現する。自分を納得させるための詭弁のようだが、今ではそう思うことで落ち着いている。

そんな話をしていた時だ。遠山さんに「今ではもう作品は作らないの?作ろうとは思わないの?」と問われた。これまでも何百回と尋ねられてきた質問だ。その度に僕は、「いやあ、才能なかったんで……。」と濁してきたし、今回もそうした。

「僕はね、」と遠山さんが語り始めた。

僕はね、最近「新種の老人」というユーチューブを始めたんだよ。北軽井沢での一人暮らしを自分で撮影して、編集して、音楽をつけて、テロップを入れて、全部やってるんだ。60歳になったいま、動画ソフトの使い方を学んでいるんだ。一人で食事を取る風景ってのはなかなか撮影しづらくてね。片手でプルプルしながら撮ってる。なかなかビュー数が伸びなくてね、この前はユーチューバーの方に相談しに行って、タイトルの付け方を学んできたんだよ。周りからは「何やってんだ」って思われてるのは知ってる。これに意味があるかどうかもわからない。でも、表現って、そもそも「意味がないもの」だろ?何事にも意味を見出さずにはおられないこの時代で、意味のないことをすることはとても大事だと思うんだよ。


「家入くん、もっと恥をかきなさいよ。」

そう言われた気がしたのは、近頃は恥をかくような新たな挑戦を避けていたことに、自分でも薄々気づいてたからだろうか。

僕らは、人間とそれ以外の動物を分ける基準は、知的能力の差にあると考えることが多いかもしれませんが、ダーウィンはそれは程度の差でしかなく、質的な差異があるわけではない、と指摘し、「道徳感情はおそらく、人間と下等動物とを分ける最良で最大の違いである」と述べています。
(略)
ダーウィンは、恥の感情から赤面するのはヒトだけであり、赤面という表現型はある特定の人種に限定されるものではなく、地球上あまねく存在しているという事実を知りました。
(略)
後悔と恥。あるいは、罪悪感と恥。僕らに元々インストールされている感情の基礎がある、ということです。

利他・ケア・傷の倫理学 / 近内悠太

僕らは、どういった文脈において、罪悪感あるいは恥を感じるか?それは、「ルールからの逸脱」の場面です。

「ルール」とは、「こうあるべきである」や「~すべきである」「~でなければならない」という語尾を有するものの総称です。少し硬い表現でいえばこれを規範性といいます。しかも、ヒトはその規範性を内面化することに成功した地球上唯一の種、ということができます。他者や共同体からの強い制裁がなくとも、僕らは独りで罪悪感を感じたり、恥を感じたりすることが(本来的には)可能な種なのです。

利他・ケア・傷の倫理学 / 近内悠太

逆にいうと、人間だからこそ恥をかけるのだし、ルールなんて逸脱して、どんどん恥をかいたり後悔したりすれば良いのだ。とてつもない速さで進化しているAIだって、(今のところは)恥をかく様子はない。

僕たちは社会のルールから時に逸脱し、「はみ出す」ことで、他者とは異なる独自の個性を形作っていく。この過程で避けられない恥や後悔の感情は、一見すると負の経験に思えるかもしれないが、これらの傷つきと向き合っていく中で、僕たちはレジリエンスを育んでいく。

恥をかくのは怖いけど、それ以上に、恥をかかなくなることの方が怖い。社会という巨大なキャンバスに、へたくそな絵を描きまくれば良いのだ。

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